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『夢中を保障する』のが、学校教育の本質だ。~映画「夢みる小学校」~

映画『夢みる小学校』。
鑑賞前は「何故このタイトル?」と不思議だったけれど
これに込められた思いが、今なら分かる気がする。

主要五教科ではなく、『体験学習』を主軸として
自由な学びの場で在り続ける私立学校。
ほぼすべての学習や行事を、子どもたち自身が運営する。
〝先生〟がいない代わりに
共に学習に参加し、ときにアドバイスを送る〝おとな〟が子どもたちを見守る。

ほかに、60年以上、成績表や時間割を採用していない公立の小学校。
同じく公立でありながら、生徒の主張をとことん尊重し、定期テストを含む校則を廃止した中学校。
〝自由な学校〟を体現する、3つの小学校で
子どもたちが織り成す、自由な日常風景と
学校に携わるおとなたちの想いが、画面を通して伝えられた。

わたしは、子どもたちにとって学びの選択肢が多彩にあり
自由に選べる社会になればいいな、と思っている。
だから、3校はどれも素敵だったけれど
すべての学校がこんなふうだったらいい、とは思わない。
こうした校風が、実際に合わない子もいるだろう。
ひとは皆違うのだから
テストの点数や通知表の評価が、モチベーションになる子や
受け身型の授業に抵抗がない子がいて、当たり前だ。

ただし、どんな特色をもつ学校であれ
『学校教育の本質』を踏まえた理念が、根底にあって然るべきだと思う。
この映画から、その本質に立ち返るためのヒントを得ることができた。

大工さながらの小屋づくりや、遊具づくり。
蕎麦の栽培や蕎麦屋への取材、調理まで手掛けながら、〝美味しいそば〟を追求する実習。
――映画では『好きなこと』、『やりたいこと』を自分で選び、それに邁進する子どもたちの姿がたくさん映し出された。
印象的だったのは、集中しているときに一点を見つめ続ける瞳。
弾けるような、ハリのある声。
…といっても、皆がいつも何かをがんばっているわけではない。
疲れたら廊下のソファで寝ている子もいた。

「夢の中にいる」と書いて、「夢中」。
ありのままの自分自身でいられる、いろんな瞬間をぜんぶをひっくるめて
映画の子どもたちは〝夢中〟であるように見えた。
そんなふうに、夢中でいられる時間に存分に浸っていれば
この先何があっても、芯から揺らぐことはないような土台が
心の奥に育まれるのだと思う。

そうであるなら、学校教育の本質って
子どもたちをまるごと信じて
“夢中〟を保障することなんじゃないか。
そんな気がする。

それは、社会のためじゃない。
あくまで、ひとりひとりの人生のためだ。
映画では、学者の方が「自由で主体的な学びを取り入れなければ、
職業淘汰の進むAI時代に取り残されてしまう」
という趣旨の意見を述べていたけれど
わたしには、正直ピンとこなかった。
社会の様相がとうであれ
ひとりひとりが自分らしく生きることで、個性が輝けば素敵だし
その結果として社会が豊かになるといい、と考えるからだ。
だからこそ学校には、AI時代が来ても来なくても
夢中を保障する場であってほしい。

現状は、本質を大切にしている学校がたくさんあるとは言えず
万人が自由に選べる状況でもない。
住む地域や世帯収入の多寡によって、個々の選択肢が変わってしまう。
でも、学校教育の本丸である公教育が
いくらでも多彩に変われる可能性を、映画が教えてくれた。
文部科学省選定作品であること、
そして『ミライの公教育が、ここにある』という副題が、それを示している。


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