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【短編小説】歩く韋駄天#シロクマ文芸部

 ただ歩くだけの競技。それが競歩。
 腕を確実に振りながら、左右の足を交互に前に前にと力強く歩く。これ以上ダイナミクスを感じる陸上競技はないだろう。

 愚直に歩く。とにかく、美しく歩く。例えるのならば、歩く韋駄天のごとく。
 しかし、競歩は地上で最も過酷な競技とも言われる。
 実は軽いジョギングにも匹敵するスピード、フォームに関しての警告の恐怖。想像できるだろうか。
 脱落に脱落。仲間たちを見捨てて歩き続けなければならない、孤独に耐える強靭な精神力さえも味方につけなければならない。
 大勢の屍の上脱落者を超えて、たどり着けるゴールだけがぼくを祝福してくれるのだ。

 ぼくと競歩の出会いは人生を変えた。
 ぼくは元々長距離ランナーだったのだ。
 しかし、長距離という競技よりも『競歩』が不思議と魅力的に感じるようになったのは、中学生の頃だった。走ること以外にも、風を感じる競技が存在するだなんて。ぼくはさっそくランナーを捨て、競歩への門を叩いた。
 まわりの皆は不思議に思っていた。「マラソンで世界目指せるのに」と、確証のない言葉を投げつけるヤツさえもいる。

 結果、競歩はぼくに向いていた。
 競歩とは長く付き合ってゆけるな。よろしく。

 だが、突然の故障がぼくを襲ったのだ。左の足首が動かない。不覚だった。
 競歩の神を愛するがあまり、神からのきつい仕置きか。
 医師からは「しばらくは大人しくしておくように」と非情の宣告がおりた。動かない左足をかばいながら、ぼくは待合室に戻る。

 テレビは皮肉にもマラソン中継を映し出していた。かつての自分と重ね合わせながら、画面を眺めていると、より歩くことへの思いが今まで以上に募ってきた。
 
 「津島さーん。津島メロスさーん」

 笑うなら笑え。ぼくの本名だ。
 待合室のメロスは走ることを捨てたし、歩くことさえままならないんだから。


 
 

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