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勘違い日本語集

7月8日発行の朝日新聞(朝刊)に面白い文章があった。

天声人語に書かれていたことなのだが、「なし崩し」という言葉の意味を日本人は勘違いしているという書き出しから日本の武器輸出の是非を問う内容となっている。
そして文末には、本来「噴き出して笑う様」を意味しているが「腹立たしくて仕方がない」という意味に置き換わってしまっている「噴飯」という言葉で締めくくっている。
(個人的に「噴飯」は「憤懣やるかたない」と混同されてるのではと思っている)

これを読んで、「本来の意味とは違う使い方をしてしまっている日本語がかなりあること」を思い出した。

大体は字面でこうだろうというあたりをつけて使っていたら全く違った意味だったということが勘違いの由来だと思うが、誤用の意味で成り立ってしまっているものもある。

そのため、人に自慢するために覚えていこうくらいに様々な「勘違いしている日本語」を紹介していこうと思う。

ちなみに「なし崩し」は、誤用が「だんだん無かったことにしていく」だが、本来は「少しずつ返していく」という意味なのだそうだ。なぜ真逆になったんだ。


『失笑』

有名な誤用の一つと言えば失笑だろう。

今では「あまりに呆れて笑ってしまう」という、マイナスな意味で使われているが、本来は「(笑いたくなくても)噴き出してしまう」というプラスな意味なのだそうだ。
「噴飯」や「なし崩し」もそうだが、誤用は意味が真逆になってしまっている。

失笑の「失」は「失う」という意味ではなく、「中に抑え込んでいたものがあふれてしまう」という意味らしく、失笑は普通に笑うというより笑ってはいけない場面で笑ってしまう意味合いが強い。

誤用の失笑は「嘲笑」や「冷笑」に意味が近くなっている。
なぜここまで意味がマイナスになったかというと、元々「失笑を買う」という言葉が原因である。

「失笑を買う」とは、「おかしなことを言って笑われる」という意味で、おそらくお笑いや漫才をみている感覚なのだと思う。
しかし、これがなぜか「笑えなくなるほど呆れる」という意味に転じてしまったのだそうだ。

会話の中では(あまり使わないかもしれないが)「失笑」を誤用の意味で使ってもいいかもしれないが、文章を書くときは是非とも注意したいものである。

参考


『姑息』

もう一つ有名な誤用と言えば「姑息」である。

今では主に「卑怯な」という意味で使われるが、本来は「一時しのぎ」の意味で使われていた言葉だ。

なぜ卑怯という意味になってしまったかというと、明確な由来はわからないが、そもそも「正々堂々と物事に取り組まず、その場しのぎで何とかしようとするその心根が卑しい!!」ということから「卑怯な」という意味になったというのが一番説得力がある言説だ。

現代の感覚からしても、「卑怯」も「その場しのぎ」もマイナスな意味ではあるため、そこまで違和感を感じない。
どちらかというと、元々の意味は「一つの物事について」であるのに対し、誤用が「どんな物事や行動にも言える」ということで、狭い意味が広い意味になったと言えるだろう。

ただ「姑息」って文章で使うのかどうかなんとも言えないところではあるが。


『琴線に触れる』

これも誤用がマイナスになってしまったパターンだ。

誤用としては「相手の怒りのツボをついてしまう」という意味で使われるが、本来は「良いものに触れて感銘を受ける」という意味である。

おそらく「〜に触れる」部分が「逆鱗に触れる」という真逆の意味を持つ言葉と混同されてしまったために、誤用が広まってしまったのだろう。

本来「絵画や美術などを見たときに琴線に触れる」という字面がとても美しい日本語なのだが、「琴線」が「怒りの導火線」の意味合いに変貌してしまった悲しい例である。


『席巻』

「〇〇を席巻する」という言い方をするが、これはどちらかというと誤用するというより意味がよくわかっていないパターンである。

なんとなく字のイメージで「全体を巻き込む」と思いがちだが、由来はとても些細なものだ。
古代中国で「席」というのは床に敷く”むしろ”の一種で、それを巻き取る動作からきた言葉なのだそうだ。
意味としては現在使われているものと変わらず、一大勢力が周りを巻き込んでいく様を表している。

そのため、何か一大ムーブメントが起こった時にそれに巻き込まれる人が多い状態を「〇〇が〇〇を席巻する」と表すのは正しい例えなのだそうだ。


『役不足』

創作の中でも誤用が目立つ言葉上位と言ってもいいくらい誤用が広まっている言葉「役不足」だ。

「自分には荷が重い」という意味合いで広まっており、どちらかというと遠慮しつつ使う言葉になっているが、本来の意味は「自分の力量で言えばこんなもの朝飯前だ」という真逆の意味である。

つまり「自分が請負う仕事としては簡単すぎる」という「自分はこんなんじゃなくてもっと難しいこともできるよ」という前向きな意味だった。

蛇足になるが、「HUNTER×HUNTER」の中で役不足とキャラクターが発言する場面が出てきた際きちんと前向きな理由で使われていた。さすが冨樫義博。さすがジャンプ。さすがHUNTER×HUNTER。


『取りつく島もない』(取りつく暇もない)

誤用ではないが、『取りつく暇もない』という言葉で書かれている文章をたまに見かける。

はっきり言うと、『取りつく暇もない』という言葉は存在しない。

なぜこのような似たような言葉があるかというと、方言のせいだと考えられる。

東日本方言で「ヒ」と「シ」を混同すると言う特徴が見られる(分布としては関東、東北南部でよく見られるらしい)のだが、語尾やイントネーションではなく、無意識な舌の使い方の問題であるためなかなか修正ができない。
例えば「東(ヒガシ)」→「シガシ」、「羊歯(シダ)」→「ヒダ」など。

おそらくその影響から「島(シマ)」→「暇(ヒマ)」となったのだろう。推測だが、一番しっくりくると思う。


『割愛』

ビジネス文書などでよく見られる『割愛』は、たんに「省略する」という意味合いで使われている場合が多い。

しかし、省くには省くがその部分に『割愛』の意味が込められている。

それは、「愛している(どうしても気に入っている)部分を泣く泣く割く(カットする)」ということである。

普段使う『割愛』は無感情に不必要なところを省略するようなイメージだが、実際の『割愛』は会心の出来である文章の一部分をカットしなければならないという苦渋の決断の意味で使うようだ。

こう考えると、何も考えず普段使用している『割愛』にも重みが出てくるだろう。

ただ正しい意味だとあまり使わなくなる気もするが・・・


『よろしかったでしょうか』

間違ったバイト用語として有名となった「よろしかったでしょうか」。
注文の確認などで聞かれる言葉だが、実はこの言葉、とある方言と混じってしまった言葉なのである。

その方言とは東北・北海道の方言。「〇〇です」という完了形の言葉を「〇〇でした」と発するため、「よろしいでしょうか」の「よろしい」の部分が方言で「よろしかった」となり、「よろしかったでしょうか」となってしまったとされている。

どこから「よろしかったでしょうか」がはじまったかは定かではないが、一説には北海道からだと言われている。
北海道、東北の一部では電話に出て名乗る時「もしもし、〇〇でしたー」と発するという話もあるため、その地域の方々には根付いている言い回しなのだろう。

一応意味合いとしてはかなり丁寧な言い回しらしいが、普段標準語を使う側から見ると、違和感を感じることこの上ない。

しかし、現在では広く知られた誤ったバイト用語であるため、もし習慣として「よろしかったでしょうか」と言ってしまっている店員がいて、自分が上司だとすればやんわり「それは方言だよ」と納得できるように説明できるだろう。


『弱冠』

主に「弱冠〇〇歳」という若い人物が何かを成し遂げた時に用いられる言葉で、紹介文などで広く使われるのがこの「弱冠」である。

なぜ「弱い冠」なのか気になるところだが、ひとまず本来の意味を説明すると「20歳の男性」という意味である。決して若い人全員に対する言葉ではない。

この「弱冠」という言葉は「席巻」と同じで古代中国に起源をもつ言葉なのだが、「弱」が20歳の男性で、20歳になると成人として認められ、元服して冠を被ることから20歳の男性のことを弱冠と呼ぶようになった。

しかし、徐々に意味が拡大していき、男女問わず若い人には弱冠とつけるようになったのだと言う。すでに一部の辞書には拡大した意味で掲載されているものもあるため、使用する際に気を付ける必要はないのだろうが、念の為覚えておくと自慢できそうだ。

また「それほど多くない」ことを表す「若干」と言う言葉との混同に間違わなければ「弱冠」で悩むこともないだろう。


『入籍』

日常生活でも使うことや聞くことが多い「入籍」と言う言葉だが、なんとなく「結婚」と同義になっていないだろうか。

厳密に言うとどちらもやることは一緒なのだが、「入籍」は「すでに自分で戸籍を持っている人の籍に入る」ということなので、お互い初婚であった場合「入籍」とは言わないらしい。

そのため、お互い初婚での結婚報告は「婚姻届を提出する」や、シンプルに「結婚した」という表現が合っているそうだ。

友達や近しい人との会話で用いる分には問題ないだろうが、公的な文章に書く場合などは注意して使っていきたい。


まとめ

自分が思いついた「意味を履き違えている、使い方が間違っている日本語」を寄せ集めてみたが、現代日常会話で使う分にはむしろ本来の意味で使うと混乱してしまうような言葉も多く感じる。

それだけ、誤用が広く受け入れられているということでもあるが、一度原点に立ち戻って言葉を考えるというのは、文章を職業とする者にとっては大事なことなのかもしれない。

言語は全て時代によって変わっていくもので、特に日本語はそれが顕著な気もするが、それだけ自由度の高い素晴らしい言語を母国語として生活できているのである。

それだけでも誇らしいではないかと啓蒙していきたい。


参考文献




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