「樹々の日々」エピローグ

 あれから何年が経っただろう。

 私はふと、懐かしいあの日々を思い返していた。 
 瑠璃珠師として歩み始めた頃のこと。
 小さな愛しい生命と出逢った。
 短くも楽しかった日々。
 手首に着けた透明の数珠をそっと撫でる。
 私があの世界から持ち帰った唯一のものだった。
 ぽろるの、瑠璃珠の結晶。

 彼のつくった世界のなかで私は遊んだ。
 丘を歩き、木陰に休み、波に戯れた。
 どこにいてもずっとぽろると一緒だった。
 そのうちに、気づいたのだった。
 瑠璃珠とは、いったいどういうものなのか。
 それは『永遠に属するもの』だった。
 時間も空間もたいした問題ではなかったのだ。
 自分の仕事に取り掛からなければならない、と思った。
 ぽろるの世界は居心地が良くて、随分と長居してしまっていた。
 天に瞬く光の綺麗な夜、私は愛しい大気を胸いっぱいに満たすと、こころを静かに整えた。
 私は瞳を閉じて、霊のことばを発した。
 ことばは空気と調和して、円やかに溶けてひろがっていく。
 瑠璃色の珠が私を包みこんだ。
 向こう側の風景が、少しずつ淡くぼやけて消えていった。
 ぱちり、と目を開くと、ひかりの顔がそこにあった。
 二人のあいだに透明な数珠がぷかり、と浮かんでいた。
 私たちは、一緒にその小さな結晶を受け止めた。
 二人の掌のなかに、光をたたえる美しいものがあった。

 私が向こうの世界で遊んでいた時間を感覚で捉えると、年単位の月日が経過していてもおかしくなかった。だけど、ふたたび顔を合わせたひかりは、ほんの一瞬のことだったと教えてくれた。
 空間の裂け目に私たちが落ちて消えたとき、爆発しそうなくらい激しいマナの奔流をひかりは見失った。思わず息を呑んで、ちょうどその一呼吸ぶん……詰まった息を吐く頃には、その場に穏やかなマナの流れが生まれていたというのだ。
 そのとき感じたマナは、私とぽろるに初めて会ったときに感じた純粋さともまた違う美しさだったという。まるで、こころとこころの優しく触れ合うような、暖かな……。
 私はひかりに瑠璃珠師の話をした。
 ぽろるにまつわる顛末。
 全部を、ひかりは聞いてくれた。
 それから、ぷくっと頬を膨らませたのだった。
「秘密だったなんてずるいです!」
 ずるい、という表現がおかしくて私は思わず笑ってしまった。
 ころころ、とぽろるの笑い方がうつったかのような、そんな笑い方で私は笑っていた。

 私はその春、彼女と一緒にハイキングに出掛けることにした。
 町から少し離れた丘陵地に一面に広がるチューリップ畑があるというのを聞いていて、花の咲く季節になったら行ってみたいと思っていたのだった。
 普段はあまり外を出歩かないというひかりも、声を弾ませて賛成してくれた。
 それから例の雨男、篝にも連絡してみた。
 ネガティブなことを言いだすかと思ったけど、意外と元気よく篝は参加を表明した。
 当日は晴れときどき雨。
「僕のことは構わず、先に行ってください!」
 篝は格好良い台詞みたいなことを言いながら、百メートルほど離れた地点でひとりハイキングを雨天決行していた。
「すごいです。本当に、そこだけ雨が降ってる……」
 ひかりは目を丸くして驚いていた。
「でしょ。それで外に出たがらなかったみたいだけど、あいつも少しは変わったのかもね」
「変わる……私もそうです。ずっと、想像するだけでした」
 二人並んで歩く。ゆっくり、一歩ずつ。
 会話のあいだに流れる静かな空気も、自然で心地良かった。
 やがて、ひかりは再び口を開く。
「私……絵を描いてみたいんです」
 その声は、決心のこもったような強い力を感じるものだった。
「素敵! 見たいな、ひかりちゃんの絵」
 私の腕を掴む手に、ぎゅっと力が入るのを感じた。
「季節の巡るように、私たちも変わっていくんですね」
 それからまた二人で静かに、なだらかな丘を歩いた。

 丘のうえでシートを広げると、バスケットを並べてしんがりの到着を待った。
 篝と、雨雲。
 篝は合流するなり少し離れた場所に、荷物からテントを取りだして設営を始めた。
 その手際はてきぱきしていてあっという間にソロキャンプ用のテントが張りおわる。
 丁寧に靴を揃えて中に入ると、正座して水筒のお茶をすすっている。
「結局別行動かい」私は思わずスマホでメッセージを送った。
「水を差すのも悪いかと思いまして」と返ってくる。相変わらず気にしすぎるやつだ。
「雨だけに」というメッセージが続いたので見なかったことにしてスマホを置く。
「はー……空気が気持ちいいね」ぐーっと伸びをして、シートに身体を投げだす。
 ひかりも、ふうっと息をついて景色を感じている。

 彼女の傍で、そのぴかぴかの横顔を眺めたときのことを、きっと一生忘れないだろう。

 丘の向こうに虹がかかっていた。
 私は、空に向かって手をかざした。
 透明の数珠に、七色の光が重なってきらめいていた。

「お師匠様」
 私を呼ぶ声に、現実へと呼び戻される。
 身体より大きなリュックを背負い直して、白い息を吐いている。
 たった一秒に過ぎなかった追憶の再生に別れを告げ、現実の時間をふたたび歩みはじめる。
「よし、行こうか」
 私は霊のことばを発した。
 こころに生じるあらゆるものの源。

 空間の向こうには闇が広がっている。
 この世に幸あれ、希望あれ。
 小さな道連れと共に、私は仕事に取り掛かった。

(了)


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