「樹々の日々」第4話

 季節は巡りゆく。
 春の足音を感じる三月。
 私の日々は少し変わった。
 きっかけとなったのはひかりだった。
 私は一週間に一度は、ぽろるを連れて商店街まで出掛けるようになった。
 それは、以前だと時間の無駄とも思えるような行動だった。
 瑠璃珠の研究、自分自身の特性を生かすためには、ひたすら内面と向き合う必要があると考えていた。実際、雑事を切り捨てて篭った一年の成果があったことも事実だった。
 しかし、このところどうも行き詰まってしまっていた。
 ちょっとした気分転換のつもりで、私はひかりの働く花屋に顔をだした。
 ひかりは穏やかな表情で迎えてくれて、花のようなたおやかな笑顔に私のこころはほっと和らいだ。
 私たちは他愛ない話で笑いあった。
 そしてふと、ことばを発することを恐れる気持ちが、いつしか薄れていることに気がついたのだった。
 だとすれば、私はもう終わりなのかもしれない。
 瑠璃珠づくり、特性を生かすという道はこの先が無いのではないだろうかと思ったのだ。
 別に何も悪いことではない。
 ただ、普通に生きていくだけのことだ。
 ひかりのように、変わった特性を持って生活している人はきっと大勢いることだろう。
 師匠に相談したかったが、二月の手紙以来沙汰はなかった。

 迷う日々ではあったが、研究を続けるにせよ、私に生じた変化は悪いものではないようにも思えるのだった。
 特性は変化し得る、という仮説は日に日に私のなかで大きくなっているのだった。
 
 考えを整理するために図式化してみる。
 イメージはこう。
 固い殻を持ち、外部と隔絶していたものが、内側で静かに流動していた。
 内側に篭った暗く冷たい存在はおそれつつ、外側に向けて働きかけようと試みる。
 この運動が殻を通過する際に、破壊が生じる。
 以上が私の特性。
 だと考えていたのだが。
 だけど、そもそも、固い殻とは何か?
 内側・個に属するものなのか、あるいは外側・世界に属するものなのか?
 仮に個の生が、殻を伴った存在だったとするなら、破壊が生じた時点で殻を喪った個は別の性質をもった存在に変化することとなる。
 またどちらにせよ破壊の後、内と外は混ざり合うこととなる。
 つまり、変化は起こり得る。
 もはや殻は古いものとなった。
 あまりに長く、その内に篭っていたために癒着し、切り離し難くなっていた性質を脱ぎ捨てるときがきたのだった。

 だんだんとイメージが曖昧で抽象的なものになってきたので私は思考を中断した。
 元々感覚派で、頭のなかで整理するというやり方は結局いつもまとまらずに終わる。
 しかし瑠璃珠づくりにはそういう作業の反復が大切だというのが師匠の教えだった。
 思考を巡らせれば同じところを廻っているようで、少しづつ瑠璃珠は形作られていく。
 ただし凝り固まることのないよう、流れは澱みなく。
 反復が大切なのは何より、実践も同じだ。
「ふう」私はゆっくりと息を整えた。
 こころはさざなみを立てず穏やかに。
 呼吸と同じように、あくまで自然に。
 霊のことばを発した。

 ぱきん。正面の空間に無が重なり生じる。
 日々の反復により短時間なら、温度など環境の影響をあまり受けずに発生させられるようになっていた。
 しかし、今となってはこの程度では成功とは言い難い。
 空気がこわれないことが理想なのだった。
 あの時は、確かそうだった。
 意識はほとんど無い状態だったと思う。
 こころの状態を記憶のなかのイメージにできるだけ近づけているのだが、手ごたえらしきものもないまま、三月は過ぎ去りつつあった。
 ふとカレンダーを見てしまうと、あまりの成果のなさにおそろしくなる。
 そうするとまた、ぽろると外を歩き、ひかりと話したくなるのだった。
 お昼寝しているぽろるが目覚めたら一緒に出かけよう、と思って寝室の様子を見にいく。
 そして、異変に気づいた。
 うつぶせのまま動かない。急いで抱き起こす。ぽろるの目は開いたままだった。
 意識はかろうじてあるようで、小さくひらいた口から「ばりばり、ざらざら」とぎざぎざのノイズのような音を発している。明らかに、いつもと違う。
「ぽろる」私は、どうしたらいいかわからなくて、思わず彼に呼びかけていた。
 どうして、何も考えていなかったのだろう。この子のことを……どこから来て、一体どんな存在なのか、何も知らないままで……。
 助けてほしかった。真っ先に師匠の顔が浮かぶ。だけど無理だ。せめて相談できていれば……なんてどうしようもないことを考えて頭のなかがぐるぐるしてしまう。
 ぽろるは今、苦しそうにしているのだ。
「梢を吹き抜ける風、流れるせせらぎ。まるで日だまりのさんぽ道がここにいるみたいな感じです」
 ひかりが言ったことを思いだした。
 この子のなかにあるもの。ぽろるに何が起きているのか、もしかしたらひかりにならわかるかもしれない。
 私はぽろるを背負うと、町へと急いだ。
 息を切らせながら全力で走る。頭の後ろで、ぽろるが苦しそうに息を漏らす。
 何も考えられない。ろくに運動なんてやってこなかった身体が全然前に進まなくてもどかしい。右足と左の足が連携を取れずにもつれ合いそうになり、何度も転びかけながら、私はひかりの元へと急いだ。

 ふらふらになりながら現れた私を見て、店先に立っていたひかりは驚いていた。
 だけどすぐに、ぽろるの様子に気づくと真剣な表情になる。
 ためらいなくCLOSEDの看板を表に出したひかりに案内されて店の奥へと入った。
 ひかりはぽろるの眉間のあたりから、かざすように当てた手のひらをすっと身体の方へと下げていく。胸の位置で止めて、頭を振った。
「こんなこと……おかしいです。マナは、通り過ぎていくものなのに」
 ひかりは気休めのように、ぽろるの胸をそっとさすりながら説明してくれた。
 空気と同じように体内を循環するマナは、通り過ぎるときに増えも減りもしない。
 ただその巡りの良さによって、澄んだり澱んだりしたものが通り過ぎるために、一時的に体調が変化することはある。
 しかし今、ぽろるの身に起きている現象は根本的に違うという。
 まず、ぽろるの内側からマナが還ってきていない。
 内側に、何かマナを引きつける力が働いている。
 そのためぽろるの中に溜まりつづけていたマナが、さらに中心部に向かって収縮をはじめている。
 純度自体は綺麗なものである、ただあまりに密度が高い。
 このままでは、何が起きるかわからない。
 何か危険な予感がする。
「樹々姉様……」ひかりが、私の顔を見る。不安とためらいの混じった表情で彼女は言う。
「この子は、本当に人間なのですか?」
 私は、言葉を返すことができなかった。
 人間ではない。
 正体のわからない存在。
 善いものだと思いたかった。
 邪なるものだとは信じたくなかった。
 隠していたのは、ただ一緒にいることが心地良かったからだった。
 ただ、自分のため。
 ひかりにも、説明すべきだったのに……。
「怖いです」
 私の返事がないことを、肯定と受け取ったひかりの声は震えていた。
 ひかりは、瑠璃珠のことを知らない。自身の特性も『そういうもの』だと自然に受け入れているだけだ。私のやっていることについても、何一つ話していなかった。
 何も話さず、一方的に頼って、厄介事に巻き込んでしまった。
「ごめんね」
 私は責任を取るべきだと思った。
「今度会ったとき、ちゃんと話すね。私が、ひかりちゃんの優しさに甘えていたこと、全部……」
 樹々姉様……どうか、いなくならないで。
 あのときのひかりの言葉は、きっとこの私の身勝手さが生んだ結末を感じとっていたのかもしれない。
 ぽろるが咳き込んだ。
 その場に季節が一瞬で駆け巡ったかのように、色とりどりの光が舞い散る。
 びりっ、と空気が震えた。
 私は、息を整える間もなくことばを発した。
 歪に割れた裂け目に、ぽろると共に落ちていった。

 私には、わからない。
 人間と、そうでないもの。

 空気にひびが入る音を聴いた日。
 世界の見え方が変わった。
 まっとうに生きることが困難でも、別の道があるという事実に救われた。
 人間の社会には、瑠璃珠の存在は表立って認められていない。
 人にはそれぞれ特性があり、多かれ少なかれそれを生かしていくものだ。
 しかし、瑠璃珠師という生き方を選んだものは、その一点に特化した道を歩む。
 細く長い、一人の道を。
 私の性分には合っていると思った。
 寧ろ生き易い道だと。
 覚悟もなく、ただ楽な方へと流れるような気持ちで、あの日の師匠の手を取ったのだった。

「二度とするな」
 突然現れて私の頬を打った人は、静かに言った。
 私に対して言っている? 私は人から関心を向けられること自体が久しぶりすぎて、頬の熱を、乾ききった旅人がなめる一雫の潤いのように感じていた。
 私は私自身に対して価値を感じていなかった。
 ただ本能に従って、飢えや渇きから逃れるように生きながらえるだけの存在だった。
 その人は瞳を閉じると、静かに涙を流した。
 私が落ち込んだ場所に共に留まってくれていた。
 そこはとても寒い場所で、私はその寒さを何も感じなかったのだけど、静かに涙を流すその人をじっと見つめているうちに、何かが変わってきたのだった。
 どれくらい時が経ったのだろう。
 身体中が石のように固く冷えきったころ、私は手を伸ばしていた。
 変わらずそこにいてくれていた人に。
 その人は暖かかった。他者の存在を初めて有り難く思った。

「ごめんなさい、師匠」
 私は小さな生命を抱きしめながら、瞳を閉じた。
 私の日々は終わる。
 無の空間は長く留まれる場所ではなかった。
 かつては何も感じなかった、暗く冷たい闇のなかを漂う。
 静寂、こころがはたらきを止めていく。
 必死で腕のなかの存在を抱きしめる。わずかに感覚が戻った瞬間耐えがたい苦痛が全身を襲う。
 だけど、そうしていないと自分が存在していることすらわからなくなってしまう。
 苦痛と無感覚の螺旋は果てしなく続く。

 やがて私は無へと溶けていった。

 何も無い空間に、小さな生命が浮かんでいた。
 その内側には、彼が何処かの世界で拾い集めたさまざまな綺麗なものたちが珠のようになって連なっていた。
 彼は夢を見る。
 こころのなかに生まれた、印象。
 色とりどりの珠を並べてつくる、美しいもの。
 無意識のまま、彼は奏でる。
 内側から、ひとつ、またひとつ。
 瑠璃色の珠が浮かびだす。
 連なり、並びあって、彼のこころのかたちに彩られていく。
 空っぽだった場所に、音が生まれた。

 生まれたての世界に、光が差す。
 天より降るまばゆい色彩は、この世界を綺麗にするものだった。
 地に這い塵を食って生きるうすよごれたわたしには、その光はあまりにまぶしかった。
 ただ、涙が流れて、天に向かってわたしは手をかざした。
 のばした手を光に灼かれながら、それが希望だと、わたしのなかにあった知性は計算を完了した。

 わたしは……私は、目をひらいたとき、自分が誰なのかわからなかった。
 長く、遠い旅をしていたような気がする。
 次第にはっきりしはじめる意識が、私は『樹々』だと伝えていた。
 不思議と体が軽い。全身に心地良い感覚が満ちていた。
 少しずつ、現状を理解していく。
 そこは、色とりどりの世界だった。
 空間に、音楽が鳴り響いている。
 優しく穏やかな、透き通る音。
 愛しさが胸に広がっていく。
 大切な人の存在を感じる。
 彼の姿は見えなかった。
 なのに、わかる。
「ここにいるんだね」
 私は愛しい大気をぎゅっと抱きしめた。


第1話

第2話

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エピローグ

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