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もうひとつの西部戦線異状"なし"。映画「西部戦線1918」

1930年に公開された、第一次世界大戦をテーマに置いたドイツ映画「Westfront 1918」(邦題:西部戦線1918)より。

戦争の前線で戦うドイツ兵士たちの視点に立った本作、彼らは戦場での過酷な状況に直面しながら、友情や人間関係、そして戦争の非人間的な本質に向き合っていく。戦争の残酷さと不条理さがリアルに描写され、兵士たちを追体験する構成になっている。また、彼らは家族や恋人たちとの切ない別れや、戦争が引き起こす悲劇的な出来事にも直面する。

…なんだ、「西部戦線異状なし」と同じじゃないか。そっちを見れば十分事足りる。どうせ同時代の「表現主義」ばんざいのドイツ映画だ、過剰の極みだろう?
そう思われる方もいるだろう。 まあ、落ち着いてこの先を読んでほしい。

監督G.W.パブストは制作にあたり相当当時の戦場、戦線を研究したのだろう:「戦場の見たまま、ありのまま」が、エモーショナルを極力排して、正確に描写されている。たとえば、このように。

壊れの見つからない、びっしり張り巡らされた鉄条網。
安全地帯も存在しない、徹底的に破壊しつくされた教会。
真っ暗闇の塹壕。兵士たちは陰鬱な表情を浮かべ、次の戦況変化の前に心を腐らせている。

つづいて本作の1シーンもご覧いただきたい。砲弾の音が遠くに反響し、目の前に聞こえるは、ただ、塹壕の土を掘り返す音のみ。

そして、本記事サムネイルにもあるように:黒ずんで転がる死体のカットが、劇中、繰り返し何度も挿入される。

本編を見ると、お気づきになるだろうが、本作、いわゆる同時代のドイツを彩った「表現主義」の色がまるでない。
そう、この作品には、特殊な照明効果、歪んだセットデザイン、奇妙なカメラアングル、捻転した音響、劇的な演技などが使用されることもなく、徹底的に現実の描写に即している。感情的な表現や内面の世界が強調されることもなく、非常に淡々と戦況は進み、その中で淡々と兵士が生き、淡々と兵士が死んでいく。
同じ題材を扱った同時代の映画、ルイス・マイルストンの「西部戦線異状なし」すら、過剰と感じられるほどに。

前作「パンドラの箱」や後作「炭鉱」もそうであるように、パブスト監督は革新的な映像美や表現手法、重厚な雰囲気とは真逆の、一歩間違えれば素朴な描写に終始した。あたかも、人間を神の視点から見下ろすように、静かに、淡々と。
Wikipediaによればこれは新客観主義とよばれ、「社会や人間の生活、都市の風景、工業化の進展などを客観的に捉え、鋭い観察力と冷静な表現で描写する」とのこと。いわば当時ドイツを席巻した「表現主義」に対するカウンター。
同じ視点に立って製作された作品に、映画ファンなら酔うに違いないこの顔合わせ! エドガー・G ・ウルマー&ロバート・シオドマク共同監督、ビリー・ワイルダー脚本の劇映画「日曜日の人々」がある。(撮影助手にフレッド・ジンネマンが参加している点にも、注目してよい。)

ベルリンの人々が週末の休日を楽しむ様子を追いつつ、彼らの恋愛、友情、娯楽などのさまざまなエピソードを積み上げ、時折都市にまつわる問題を差し込むのは、脚本の力。
他方で、俳優ではなく一般の人々が出演し(演技を行い)、実際のベルリンの中で撮影を行い、無駄な装飾や劇的なストーリーテリングを排除し、普通の人々の生活を自然な形で描写することに成功している。
いわば「さりげなく」撮られた「普通の人々による/ための」映画なのだ。 これが「西部戦線1918」との共通項。もちろん、「西部戦線1918」は本物の俳優、時にセット撮影など「完全な劇映画」ではあるけれども、希求するところは、同じだ。

徹底して客観に徹することで、パブストが伝えたかったこととは何か:
「WW1になぜ負けたのか」その理由を「背後からの一突き」あるいは「もう少し頑張ったら勝てていた」というマジック・ワードに囚われて直視出来ていなかったのが、まさに同時代のドイツ国民だった。
パブストは本作を通じて、「頑張っても一般兵卒の命を散らすだけだったのだ」と、事実を淡々と、自国民に突きつける。

表現主義に10年遅れてやってきたこの「新客観主義」、残念ながらナチス台頭を前に、その実を結ぶ前に、そしてハリウッドにその精神が受け継がれることなく、終わる。
しかし、パブストたち映画人が切り開いた「劇的な作劇の排除」の地平、鋭い観察力と冷静な表現で描写するスタイルは、後世の映画作家にも、確実に継承されていったのだ。もちろん、戦争映画の世界にも。

本記事の画像はCriterionより引用

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