見出し画像

「身を隠すには良い土地さ。誰もが覗きたくない土地だから。」 「Sorcerer」または「The Wages of Fear」(1977)

ウィリアム・フリードキンは1970年以降のアメリカ映画の最も重要な要素の二つであるアクション映画とA級ホラー映画を、ある批評家の言葉を借りれば、「実質的に発明」した。ダーティハリーと合わせ、その後の映画とテレビにおける刑事物のパターンを決定した「フレンチ・コネクション」とオカルト映画の走り「エクソシスト」だ。

音響馬鹿、演出過剰、鋭いカッティング。
ヌーヴェルヴァーグの革新の風をハリウッドに持ち込んだ、フリードキンが2つの世界的大ヒットの後、次に手掛けた作品が「Sorcerer」(1977年:邦題は「恐怖の報酬」)だ。

ガラクタの中から部品を集めて組み立てられた、頼りない二台のトラックで、危険なニトログリセリンをジャングルを越えて運ぶという、イノチガケのミッションを描いた1953年のフランス映画「e Salaire de la peur」(英題は「The Wages of Fear」、邦題は「恐怖の報酬」)のリメイク。
なお、本作に登場するのは、片方が「La Chita」(スペイン語で「悪い知らせ」)と名付けられた 1937年式のダッジ M37(Dodge M37)で、もう片方が「Sorcerer」(英語で「魔術師)と名付けられた1951年式のホワイトGMC 950(White-GMC 950)。後者のトラックの名前をタイトルに持ってきたわけ。
「元ネタとリメイクでタイトルが一致していないじゃん!」という素直な疑問に対する答えにはなっているが、「じゃあなんでタイトルいじくったんだよ」というツッコミが次に出現すること、間違いなしだろう。


あらすじを追っていこう。
開幕直後、4つのエピソードが続き、脈絡のないこれらがどう交叉してゆくのか予想でぎず混乱しそうになる。
すなわち、強盗で国外逃亡中のアメリカ人・ドミンゲス。
不正融資をして国外逃亡中のフランス人銀行家・セラーノ
ユダヤ人右翼の殺し屋・マルケス
祖国解放に命をかける若きパレスチナ人・カッセム。
と、現代ですら攻めていると感じられるし、まして当時では、あまりにポリティカルすぎてフリードキンのようなビッグネームでもなければ正規の配給ルートには乗らないであろう、ドン引き一歩手前の曰くアリの男4人が、意識によって制御できない運命に導かれるようにして、「地の果てに辿り着いた所以」をカメラは執拗に追いかけるのだ。
そしてこれは主役4人が出会う以前の、彼らがどういう事情を背負う人間なのかを説明するプロローグであることが、序盤の終りに判明する。

ようやっと中盤に入って、飢餓地帯に四人は降り立つ。
彼らが身を隠す国は、どうやら反共の名のもとアメリカが支援している中南米の独裁国家らしく、どこもかしこも、独裁者の顔のポスター、肖像画が張り巡らされていて、野良犬の叫び声と赤ん坊の泣き声は絶えることなく、見るからに貧困と圧政が支配している。方やその文明の程度に対して、不釣り合いにも、米国系石油メジャーが進出している。そして1970年代ならさもありなんな、人員をひたすら消耗する過重労働を現地人に対して強いている。
気の利いた文明の利器なんてものはない。コカコーラを気軽に冷蔵庫から取り出せ、飲めるのは官憲ぐらいなもの。

その米国系企業の油田で大火災が起きる。怪我人とともに、黒化した屍も運び入れられてくる。復讐のためか。追悼のためか。それがスイッチになって、たちまち大暴動が起こる。
しかしそれも「革命」の機運にはつながらず、一時の興奮に過ぎない。一時避難していたドミンゲスが戻ってきた時、村は元の小康状態を取り戻し、破り捨てられたはずの独裁者のポスターも元のピカピカに貼り直されている、何も変わりやしない、暗黒の土地。

この国に一時的に身を隠すつもりだった4人にとって、油田の火事は、対岸の火事ではない。油田関連の重労働で稼げる日給はわずか。それも食堂の飯とビール代に消える。金がなければこの地獄の外には出れないが、肝心の金が貯まらない。
それでも、油田という唯一の働き口を失えば、彼らは、永遠にこの地獄から抜け出せはしなくなってしまうのだ。

火災を食い止めるにはニトログリセリンを爆発させ酸欠状態を作り出して消火するしかない。しかし、ニトロは300キロ離れた山中の村にしかない。しかも、村から製油所までは未舗装の荒れた道が続くため、トラックでの陸送は極めて危険を伴う。石油会社は多額の報酬を条件に、4人のドライバーを「車を運転する知識がある」村にいる外国人労働者の中から選び出す。
なお、なぜそんな一か八かミッションを計画するのかといえば「本国本社が余計な金を費やしたくない、鎮火に費用を費やすくらいなら油田をクローズした方がマシだと考えている」せい。

金目当てで多くの希望者が群がる。そしてテストが始まる。「いかに車体を揺らさずに、でこぼこ道を運転できるか」。このシークエンスから既にして張りつめた緊張感。「エクソシスト」で例えるならば、マリア像を内側から破壊する悪魔の角のように暴走・変質しそうになってしまう少女の身体、そのものは壊さないように、しかし悪魔自体は祓おうとする司祭たちが有していた緊張と恐怖。このひりつく感じは、映画の最後まで付きまとうのだ。
ともあれ、。一時的に身を隠すつもりが、搾取のからくりで、いつしかこの村から抜け出せなくなってしまっていた、ドミンゲス、セラーノ、マルケス、カッセムの4名。最終選抜に残り、一発逆転の大金を掴みに旅に出る。

2台のトラックによる地獄のロードが始まる。激流に渡された今にも朽ちかけた吊り橋をウィンチを使いながら渡り、行く手を塞ぐ巨大な倒木を爆破する。はぐれ者四人、何とか心合わせてせっかく困難を乗り越えたにもかかわらず、オリジナル同様、一瞬の不注意からセラーノ&カッセム組「La Chita」はニトロで自爆してしまう。
遅れて現場にたどり着いたドミンゲス&マルケス組「Sorcerer」は、爆発音を聞きつけて道まで降りてきた山岳ゲリラと鉢合わせしてしまう。日用品と勘違いして積荷を強奪しようとするゲリラたち。「やられてたまるか!」その狂気じみた気迫とともに、ふたりは、ゲリラたちを皆殺しにする。そのなかでマルケスは重傷を負い、それがもとで、逝く。
ひとり、ドミンゲスだけが、ダイナマイトの小箱を抱えて、よたよたと歩いて油田にたどり着き、倒れこむ…同時期の邦画で例えるなら、さながら「復活の日」の草刈正雄のように。


演出・ビジュアル重視とあって、台詞を通じた登場人物の描写はごくわずかだが、その数少ない人物描写の中でも尺を割かれているのが、ドミンゲスだろう。
ドミンゲスというのも偽名。本国ではJackie Scanlonというギャングとして名を馳せていた彼は、しかし現金強盗成功からの、仲間内での言い争いで脇見運転による交通事故での仲間全滅、自分だけ生き残り。とどめとばかりに、盗んだカネがマフィアの資金源であったために、殺し屋たちに命を狙われる羽目となった、(人食いサメと何度も遭遇してしまう中の人同様)、ブルース・ウィリスばりに運が悪い男。

Scanlon: Where am I going?
Vinnie: All I can say is it's a good place to lay low.
Scanlon: Why?
Vinnie: It's the kind of place nobody wants to go looking.

IMDBから引用

との友人の提案を受けて、村まで逃げ込んできたのも、その経緯があってのことで。

正気を「ゆっくり」と失っていくドミンゲスは、発狂ぎりぎりのところでミッションを達成。何とか生き永らえ報酬の小切手を受領し、小綺麗な格好になった、しかしいまはとにもかくにも「この村に離れたい」気持ちでいてもたってもいられないのが、画面からよくわかる。
彼は最後の心残りに、翻意にしていた宿の女とワルツを踊る。
そのワルツのさなか、本国から放たれたギャングの刺客が車を降りて、バーに乗り込んでくる…。


、無国籍何考えてるかわからない冷徹な表情を見せるニヒルな6連発リボルバーが似合う暗殺者マルケスに、平時なら好青年のテロリスト:カッセム、地の果てまでやってきても妻を案じ続ける愛妻者セラーノと、ドミンゲス以外の他3人の造形も十分。
総じて、フリードキン自身が信じて疑わなかった、「エクソシスト」以上のヒットが約束された超大作、というべき貫禄に満ちている。

だからこそ、繰り返す。 「なぜ「Sorcerer」を原題にしたし」「なぜ素直に「The Wages of Fear」を原題にしなかったし」。

Wikipediaの「Title and themes」の項にある通り、フリードキンの自説はごもっともだが、タイトルを分かりづらくひねりすぎた、としか言いようがない。
実際、本国では「同じ監督のエクソシストみたいな映画だと思ってたのに、汗だくのオッサンばかり出てきて(しかも序盤は何も起こらなくて)、なんか違った」とがっかりした客が多かったようだし。
結論。本作の興行的失敗は、映画関係者が皆一様に言うような「スターウォーズのような分かりやすい映画に大衆が流れるようになった」は言い訳にならない、タイトルの付け方が取り返しのつかない事態を生んだ事例の一つ。皆様にとってはバズる記事を作成する反面教師となる…かもしれない。


この記事が参加している募集

この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!