馬の様に生きようとする心に、思いを、馳せよ。キルギス映画「馬を放つ」
中央アジアのうち一つの国:キルギスの名匠アクタン・アリム・クバト監督がメガホンをとって自ら主演を務めた、いまは亡き岩波ホール好みの2016年の映画「馬を放つ」
村人たちから「ケンタウロス」と呼ばれる寡黙な男は、妻と息子と3人で慎ましい生活を送っている。
騎馬遊牧民を先祖に持つキルギスに古くから伝わる伝説を信じる彼は、移動手段がバイクや車に置き換わり、人々を結びつけてきた信仰も薄れつつある 時代の波を感じ、夜な夜な馬を盗んでは野に解き放っていたが…。
まず、驚かされるのが、シネマスコープの2.35:1の縦横比を巧みに使いこなしていること。
縦移動と横移動、まるで映画の教科書をなぞるかのように、この二つだけで画面を組み立てている。
とかく個性的なカメラワークに頼りがちな昨今の映画と比較して、斬新に感じられるのは、皮肉というべきか。
余分なものを出来るだけ画面上から削ぎ落とすことで、2.35:1のアスペクト比が本質的に持つ力:緊張感と躍動感とが画面に充謐する。
遊牧民の気風が死に絶えつつあるキルギスの平原で、本来自由であるべき者たちが、画面の上でもあらすじのうえでも、窮屈そうにしている。
一つは馬だ。
移動手段としては車に取って代わられ、一家に一頭という文化はすでに失われている。
もはや馬たちが辿る運命は、食用にされるか、競走馬として金持ちの道楽に使われるしかない。
もう一つが人間だ。
女性は家を守ることを強いられ、子どもたちは遊びを忘れる。(村一番の有力者かつ金持ちであるヌルベルティの子供たちが、周りのものには目もくれず虚ろな目をしてスマホゲーに魅入っている姿が、印象的だ。)
彼らの憂鬱が雨となって降るかのように、ひりついた「いや〜な」緊張感が、画面の向こうから重苦しく伝わって来る。
それを横目に幅を効かせるのが、狡い大人の男たちだ。自分より弱い者を狩る時、彼らは活き活きとしてくる。
例えば、馬泥棒に身を堕とすしかなかったサディルは、馬の上に乗って人を威嚇する時だけ、惨めな自分を忘れて優越感に浸ることができる。
誰が悪いでもない。
押し黙るか、喚くかしないければ、不自由な土地のしがらみに縛られ続けることに、耐えることはできないのだ。
しかし、主人公のケンタウロスは耐え忍ぶ真似をしない。
むしろ、「しがらみ」や「掟」に対して異議申し立てる。
声高になにかを唱えるのではない。
己の欲することを、そのままやるだけだ。
それは、息子を肩に乗せ日暮れの草原の帰り道に就くとき。
それは、ときに一人で、ときに妻子とともに、激流に掛かるつり橋を渡るとき。
それは、かつて生業だった映写機を回すとき。
それは、夜闇に紛れて「馬を放つ」とき。
それだけで、靄は晴れ日が差したかのように、躍動感で大地が画面一杯にきらめく。
この秩序と周囲を揺るがす存在:ケンタウロスを、村の人々は、いや世界そのものが赦そうとしない。だから最後、ケンタウロスは殺される。
しかしその言霊は、ケンタウロスの息子に受け継がれる。
神話の時代は確かに終わってしまったのかもしれない。しかし、いつかまた風となって自由をもたらしに舞い戻って来るに違いない。そう予感させて映画は終わる。それが良い。
この記事が参加している募集
この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!