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異議申し立て候。 激烈なロマンチズムとカタルシスの巨匠・伊藤大輔の時代劇 三本だて。

昭和恐慌とゲンダイが被って見えるのは、何も偶然ではあるまい。
陰鬱な時代には、陰惨な物語が流行るようになる。

さて、昭和大恐慌下の不景気の時代。陰惨な物語が喝采を浴びた時代。幕が上がり、その名前が出るだけで、観客席に一斉に拍手が起きた、凄いやつがいた。名は伊藤大輔
暗闇に御用提灯がずらりと並ぶカット。移動撮影を巧みに使ったカメラワーク。そして、完全無敵の英雄豪傑の物語ではなく、人間臭い悪党の物語を描く。
無頼漢の挫折、反抗、絶望、感傷…憤り、悲しみ、孤独 を真に迫らせる。
「時代劇のお約束」を発明したのが、この人だ。「話術」とすら讃えられた。

今回は、この巨匠のキャリア初期・中期・末期を飾る三作品を紹介する。


無頼漢の挫折、抵抗、絶望。 初期の傑作「忠次旅日記」。


下衆なもの、見る価値ナシ
と軽蔑していた知識人たちが、邦画に目を向けるきっかけとなった作品だ。
そして、数多くある戦前期の失われた日本映画、いわゆる「幻の映画」のなかでもその代表のように語り継がれてきた伝説的な名作だ。フィルムは六十年以上散逸したままだった。

1927年/日活大将軍/107分/35mm/染色・無声・不完全
監督:伊藤大輔 出演:大河内傳次郎、中村英雄、澤蘭子、伏見直江
◆赤城の山から逃げ延びた忠次は、越後の造り酒屋に番頭として身を隠すが、やがて正体が発覚し、追われる身に…。激情ほとばしる殺陣、秀逸なユーモア、緩急を心得た伊藤大輔の演出が冴え、逃亡の旅を続ける忠次のドラマはクライマックスを迎える。
東京国立近代美術館フィルムセンター 公式サイトから引用

「国定忠次は鬼より怖い。にっこり笑って人を斬る」と歌われた幕末の上州(現群馬県)の侠客国定忠次が、やくざの世界で名を挙げ、しかし子分に裏切られて破滅していくまでを、三部作で描いた大長編だ。
この内、一番重要な「忠次の最後の一日」を描いた第三部「御用篇」の大部分が、幸にして残った。

無頼漢の国定忠次に世渡りの才能はなかった。徹底的に役人たちと対立し、逃亡の旅が続いた。
中風で身動きできなくなった忠次(演:大河内傳次郎)は、捕手に追われ、わずかな子分と妾お品(演:澤蘭子)ともども、隠れ家に身を潜める。
その際の悲壮な表情が、本記事トップの画像だ。老い、やつれはてながら、かろうじて息をしている。ギリシャ悲劇のような崇高なイメージがある。

容赦なく、捕方は怒涛の如く、隠れ家目掛けて押し寄せる。
群がる捕手の中に白刃を閃かして奮戦する子分たち、しかし衆寡敵せず、ひとり、またひとりと倒れていく。最後のひとりは土蔵の扉を開くまじと、両腕で力の限り支えていた(苦痛に歪む忠次の顔とのカットバックが美しい)が、四方八方より来る捕縄に、遂に捕らわれる。 

床の中の忠次は、愛刀を抜く気概も既になく、口をきくこともできず、お品に介抱されたまま、無念口惜しの涙を流し、運命は刻一刻と迫る。
今はこれまでとお品は

親分、最後のときがきましたよ。


捕手が忠次の真前に殺到する。

お上を騒がす不届き者め、神妙に致せ。

お品は役人の前に愛刀と短銃を出し

お役人様、お手数をかけました。忠次はお縄を頂戴いたしますでござんす

活弁の場合、最後は例えば以下のように締められる。

一世の侠人、その華やかならざりし一生は、最も華やかなりしものであったろうことは、彼の最後の1日が雄弁に物語っているのではないか。げにや、忠次流転宿命の末路は余りにも痛ましかった。

活辨時代 みそのコレクション」  143ページ

無念の強さ。 見てるこちらも、締め付けられる思いがする。
大河内伝次郎の「顔」を見るだけで、十分にお釣りの来る映画だ。

なお、ソフト化はされていないので、上映会を見つけてカツベンと共にご鑑賞ください。


戦後に一気に飛ぶ。1951年には松竹下加茂撮影所で、時代劇の傑作を生み出す。

良心が許せど対面が許さない。中期の傑作「大江戸五人男」。


これは太平の世、武運を試す機会のない鬱憤晴らしに権力を傘にきた旗本の狼藉に、立ち上がった町奴(つまりは、江戸の顔役)たちの物語・・・のはずだ。

ストーリー
滅び行く挽歌を奏でる旗本階級の暴虐と江戸町奴のレジスタンス!水野十郎左衛門と幡随院長兵衛の対立を中心に描く絢爛の大江戸絵巻!
時は三代将軍・徳川家光の時代、江戸の町では太平の世の陰で冷遇され、堕落する旗本たちの横暴がまかり通ろうとしていた。そんな中で幡随院長兵衛(坂東妻三郎)が束ねる町奴と、水野十郎佐衛門(市川右太衛門)ら旗本奴の白柄組が、町人の意地と武士の面子をかけて激しく対立していく・・・。
スタッフ
総指揮:大谷隆三
製作:月森千之助
脚本:八尋不二/柳川眞一/依田義賢
監督:伊藤大輔
撮影:石本秀雄
音楽:深井史郎
キャスト
阪東妻三郎(幡随院長兵衛)/高峰三枝子 (腰元おきぬ)/山田五十鈴(女房お兼)/市川右太衛門(水野十郎左衛門)
松竹DVD倶楽部 から引用

時は江戸。
木挽町の山村座の木戸で、水野の白柄組は、幡随長兵衛の身内の町奴どもと、些細のことから衝突する。確執は深まり、最後、幡随院は水野の騙し討ちにあって湯殿で殺される。
この逸話に、「いちま〜い、に〜まい」で有名な「皿屋敷」を、登場人物青山を水野に、お菊を水野に片思いする腰元:おきぬに置き換えて、挿入する。
つまり、おきぬは水野が大事にしていた皿十枚のうち一枚を割ってしまうのだ。

重要なのは、侍:水野を(講談と異なり)根の優しい人間として描いたことだろう。確かに(家中の家来含めて)喧嘩好きなこの男だが、山村座でおよび各所で幡随院が見せるきっぷに感服するし、おきぬも一度は許そうとする。
うわべの荒っぽさには似合わず、底には優しい涙をもっている。町奴を敵視していない:士農工商飛び越えて仲良くしてもいい、とすら思ってる。

だが、封建制の「空気」が、それを許さない。
水野が良心に従おうとするたび、家外の旗本、近藤登之助(演:三島雅夫)が、武士道の掟を体現するメフィストとして現れる。
虫唾が走る、あくどい笑みを浮かべて、「お前は侍に相応しくない」と水野家中を前に罵声を浴びせ、信用を失墜させる。 はっきりいって「パワハラ」だ。
引くに引かれぬ武道の意地とか義理 の世界へ追い込んでいく。水野は正気を保てない。

だからやむなく、(講談通り)水野は皿を割ったおきぬを手討ちするし、
だからやむなく、(講談通り)水野は幡随院を風呂場で刺殺する、そして水野は切腹を申し付けられる。 追い込んだ当人=近藤はお咎めなしだ。
同じ封建社会批判の形をとっても、三島雅夫の怪演もあって「切腹」よりよっぽど後味悪く、全編異常な緊張感に満ちた本作は、幕を閉じる。

本作は、1951年邦画配給収入トップ10中、第2位を記録した。

※なお、二者の対立について、池波正太郎は「侠客」で、また別の視点(ミステリ仕立て)で詳しく記している。
※みなもと太郎の漫画「挑戦者たち」での論考も興味深い。


戦後も腕衰えず、と巨匠としての名を高めるも、しかし、ひとところにはとどまれないタチ、(当時6つあった)大手映画会社の間をウロウロすることとなる。
腰を一所に定められない人間は、会社としても使いづらい。
自然、監督としては寡作の人となり、脚本家としての仕事の方が増えていく。(その中には勝新太郎や市川雷蔵主演の時代劇も含まれる。)

1965年、伊藤大輔はビッグ・プロジェクトに携わることとなる。
山岡荘八原作の「徳川家康」を、吉川英治原作・内田吐夢監督の『宮本武蔵』のように、5部作(年1、2本予定)のシリーズ化公開する、というもの。
東映が監督に伊藤大輔を起用し、脚本も執筆するという条件を提示したところ、それまで映画化には首を振らなかった原作者自身が、「伊藤さんならば安心してお願い出来る」と東映時代劇への信用と合わせて了承した。
まさに伊藤大輔、最後の大舞台 となるはずであった。


三河武士、捨てがまる。 後期の傑作「徳川家康」。


歴史小説家:山岡荘八の「徳川家康」は戦後日本のバイブルとなった。

山岡は、敗戦で米ソの監視下に置かれた 日本を、今川・織田に挟まれた弱小国三河になぞらえて創作された、といわれている。そして彼は、家康を「狸親父」または「簒奪者」ではない、優れた指導力で泰平の世を築いた英雄、神様のような人格者として描いた。
それは高度経済成長期には経営者のバイブルとして、「家康ブーム」という社会現象を生む。他方、敗戦からの復興に立ち上がる母と子の姿を、家康と母於大 に投影させて、「平和」を願う「母の心」を側面から描いていく。

本作は、小説の最初の方、三歳で母於大と別れた家康が、十九歳まで強いられた人質生活、まさに「戦争孤児」ともいうべき厳しい環境に耐え忍ぶ姿を、伊藤大輔が映画化したものだ。 
当然、家康という英雄の物語 だけに収まるはずがなかった!
山岡が本作に託したもう一つの側面「第二次世界大戦で見送った特攻隊員への鎮魂歌」が強く現れている。

※キャスト・スタッフは下記参照。

(監督の過去作「斬人斬馬剣」のオマージュと思しき)反逆者たちへの見せしめ、磔獄門の並ぶ丘から物語は始まる。織田と今川、ふたつの大国に挟まれた三河の難しい状況を、一枚の絵で見せる手本だ。

3歳の春、城主となった松平信元は今川の勢力を脱し、織田方と盟を結ぶ。
今川義元は三河を織田進撃を喰い止める要路とみて、竹千代を人質に迎える旨、信元に伝えた。松平家中は、竹千代を送り出す準備を始める。
竹千代にお供する(まだ幼さの見える、少年ほどの年頃の)侍童七人を選び出し、彼らに「死ぬこと」つまり切腹の作法を教える。彼らは三河武士の一分として、切腹の作法を教えられる。

竹千代は七人の侍童に守られて駿府に向かう。だが(原作および通説の通り)竹千代は織田方に誘拐される。七人のお供は責を負って、ばたばたと腹を切っていく。 浜辺に骸が転がる、恐ろしい構図。

ここからが竹千代のターンだ。伊藤大輔は「母子」の物語を丁寧にえがく。
織田型での人質生活。 竹千代の「母はいない」孤独はさらに深くなる。
実母である於大は熱田に向かい、吉法師(後の織田信長)のおかげで竹千代の姿を垣間見る。直接会うことはできない。せめてこの母に報いたいと、吉法師は竹千代が折った金色の折鶴を於大に渡す。於大は自ら織った服を、使いの者を介して竹千代に贈る。
それを掲げて、竹千代は「ああ自分は一人じゃないのだ」と、むせぶ。
まだ見ぬ母に涙するシーン。 不安と喜びが、みずみずしく描かれる。

そしてクライマックスは、桶狭間の戦いだ。
当時今川家の属国にあった成長した竹千代:松平元信は、家臣と自分のために切腹した7人の侍童に報いるため、自城にこもり、織田方との戦いを避ける。
織田が勝利し元信は独立する。 まだ母に会うことはできない。

捨石になった者たちのため、まだ見ぬ母に出会うため、竹千代の「生き抜かなければならない」流転の運命。 
NHK大河ドラマにお株を奪われつつあった重厚なドラマ(ちょうど1965年には緒形拳主演の「太閤記」が放送されている)を、大スクリーンに取り戻す。
そうなるはずだった。


1965年、東映は時代劇製作から撤退。 伊藤大輔も東映を退社。
以降の監督作品は「幕末」(1970年)のみ。
その11年後、恍惚の人となって、時代劇の神様は一生を終えることとなる。


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