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雨上がりの午後

  昨日、リハビリの先生から課題にされている一時間~二時間の「車いすに乗ること」のために座面に腰を下ろしたら、痛みや違和感は何もこなかった。
 朝まで土砂降りに近かったのに、昼ごはんをすませて窓に目をやると久しぶりにカーテン越しの明るい空気を感じられたし、ご近所の子どもたちの声が聞こえてきた。
 タブレットで雨雲レーダーを確認してから、頭の中で一時間前後のコース設定をして、散歩することにした。
腰の具合が悪い日に痛みが走る急傾斜のスロープも、何事もなく降りきった。
 目的地は、二十分ほど歩いたところにある市営住宅の向かい合う広い歩道だった。
車道をはさんだ建物はどちらも十階程度の高さがあって、昨日までは風の吹かないときを知らなかった。
片道二十分で、しばらく涼めば車いすから降りるためのあれこれを考慮して、一時間三十分弱車いすに座った計算になる。

 ところが、話は予定通りに進まなかった。
なんと、あの場所へ近づいても、歩道の若木の並木の一枚の葉も揺れる様子はなかった。
陽射しはやや傾きはじめていたので、建物を西側に置けば陰に入ることができる。
 とりあえず、自転車などの邪魔にならないように、若木の間の歩道の隅に車いすをよせて、風のはじまりを待ってみた。
五分ほどしても、あたりは凪のままだった。
音を立てて空を吹き渡る風を期待して歩いてきたぼくは、思いのほかガッカリした気分になった。
 昨日は、二十分歩く程度では汗はかかなかった。
次の週末、訪れる午後があったとしても、「風の道」に出逢うまでに汗だくになってしまうかもしれない。
在宅暮らしが長くなって、電動車いすで歩く(運転する)ことも大ごとになりつつある。
一時間ほど歩いただけで、全身がパンパンに張ってしまう。
必要な動作は、左手の指先でコントローラーのレバーを操るだけなのだけれど。

 ということで、予定変更。
「風の道」から二十分ほど歩いたところにある引っ越し前の文化住宅へ向かう。
前の文化住宅からいまの文化住宅まで、およそ三十分。
合計一時間三十分あまりで、わが家に到着できる。
このあたりはぼくのナワバリのようなものだから、スイスイと最短距離で歩く。

 昨秋までのわが家へ向かったのには、ちょっとした理由があった。
この間、居酒屋風料理の得意な家事ヘルパーさんがぼくの部屋へ入ってくるなり、勢いこんで話してくれた。
「なあ、なあ、前に住んでた文化、取り壊ししてるでぇ」
その場は寝起きだったこともあって、「ああそうかぁー」ぐらいにしか思わなかった。
 けれど、取り壊し現場に足を誘うもうひとつの理由があった。
寝起きの頭がハッキリすると、お盆だったことに気がついた。
その時点で、外出するつもりなどなかったぼくは、お昼ごはんを買いに行ってもらうついでに、おはぎもお願いしてしまったのだった。
わが家におはぎの存在がなければ、いつもの和菓子屋まで足を延ばして、ご主人たちから「元気」をいただき、お盆とは縁のない「くずきり」を買いに行っていたはずだった。
 二週間ほど前、デコポン餅を買って、別れぎわに「次回はくずきりいただきます」と、頭を下げたのだった。
いつも、お店を訪れると元気をもらったという気持ちからか、自然におじぎをして別れるようになった。

 取り壊し現場へ着くと、あまり目にしたくない光景が「そこに」あった。
建物の背後からは鉄柵しか見えなかったけれど、玄関側にまわると小型のブルドーザーが停められていた。
 ぼくは近眼なので、最初は停められているだけかと思った。
けれど、いっしょに来た青年ヘルパーSくんが低めの声で「あっ」と言ったかと思うと、「壊されてる!」と、今度は物静かな彼にしては十メートルぐらい離れたぼくにも聴こえる大きさで、「つぶやく」ように「さけんだ」。
矛盾しているようで、こういう表現でしかぼくには再現できない。
 ブルドーザーのショベルが突っこんでいたのは、ぼくの暮らしていた部屋だった。
Sくんは手招きするけれど、確かに見える距離まで近づきたくはなかった。

 いろいろな事情があって、いま、ぼくの生家は駐車場になっている。
施設を出てひとり暮らしをはじめた文化住宅も、とっくにシャレた二世帯住宅に建て替えられていた。

 帰り道、「根なし草」という言葉が頭の中なのか、胸のあたりなのかを駆けめぐっていた。

 いろいろな事情があって、ぼくには子どものころの写真が一枚も残ってはいない。

 なにか虚ろで、透明で、無機質な力が働いて、過去を消し去ってゆくようだ。

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