見出し画像

包みこむ

 「友だち」を幅広く捉えれば、暮らしをサポートするヘルパーさんたちから立話(ぼくは電動車いすだけど)に花を咲かせる顔なじみの市場の人たち、それから、兄貴や姉ちゃんもひっくるめて、ぼくを食通だと思いこんでいる。
 
 たしかに、経済的には贅沢をかぎりなく続けることは難しくても、時間を惜しんだり、入店するための物理的なお手伝いを遠慮したり、そういう面倒くささについては、ほとんど気にしてはいない。
 だから、二日前も腰の痛さを度外視して、後に必ず降りかかる苦しみを意識の奥へ押しやって、フィッシュバーガーを買いに行ってしまった。
コンビニなら、わが長屋から徒歩一分であるというのに。

 ところで、ぼくの友だちは週三日サポートに訪れる濃ゆいかかわりのヘルパーさん以外は、コンビニやスーパーやファーストフードやチェーン店の出来合いものを食べたがらないと、そんなこだわりを持っているのではないかと、誤解している人が多いのではないだろうか。

 きょうは日曜日。
 朝食は、徒歩一分のコンビニで買ってきてもらった菓子パン一個と総菜パンだった。
焼きそばとメンチカツのサンドイッチには、ほんのすこし中毒性がよぎった。
 昼食は、近所のスーパーのイカのにぎり寿司セットだった。
買い物の順番を間違えて、スーパーへ先に行ってしまったので、いったん自宅の冷蔵庫に仕舞わなければならなくなった。
一時間近く鎮座していたせいで、メシがカタくなっていて残念だった。
 夕食は、三十分近く電動車いすで歩いて、王将の天津チャーハンを買ってきた。
 さすがに、それだけだと物足りないので、ぼくが五つぐらいのときに小学六年だった姉ちゃんがつくってくれたキャベツだけの「キャベツ炒め」を泊まりのヘルパーさんに、再現してもらおうと考えていた。
 ところが、この投稿に時間が思いのほかかかり、キャベツだけの「キャベツ炒め」は見送らざるを得なくなってしまった。

 昨日、朝の家事ヘルパーさんは、ぼくの味つけの好みを知りつくしたOちゃんだった。
彼女は、どのジャンルもオールマイティーにつくることができる。
しかも、手早い。

 Oちゃんが来る時点で食材は豊富にあっても、冷蔵庫の残りものは納豆ぐらいしかなかった。
ぼくは二食分の豆腐ハンバーグをお願いして、もう一品ポテサラか、お浸しとおみそ汁を頼むつもりだった。

 ところが、急に気が変わった。
 Oちゃんは、久しぶりのわが家での登板だった。
 彼女がわが家を離れてからの暮らしぶりを、きちんと話しておきたくなった。
メインになる豆腐ハンバーグだけ仕上げてもらっておいて、すこしでも時間をあまらせたかったのだった。

 こうして彼女のことを書こうとすると、どうしても目頭が熱くなってくる。
 Oちゃんは、おそらくぼくが二十代後半から三十代初めでこどもが産まれたとすれば、ちょうど頃合いの年齢ではないだろうか。
 
 とても利発な人だ。
 わが家でもいっしょに組むヘルパーさんによってカジュアルだったり、気配りを優先させたり、何とも言えない距離感で相手に気持ちよく働いてもらえる心遣いをしていた。
それがまた「自然」に振る舞えていたから、ぼくの信頼感は厚かった。

 Oちゃんが入ってくれていた時期は、ぼくにとって一番しんどいころだった。
「思いこみコロナ」からはじまった引きこもりがちの暮らしぶりは、自分の弱さを責める毎日になり、やがて精神状態が乱高下をくり返すようになっていった。
 そんなとき、週に一度の彼女の来る朝に、ぼくは本当に支えられた。

 一日分の食事づくりを済ませ、掃除をしたり、洗濯物を片づけたりしていると、ぼくの食事介助やトイレや着替えなどをする「身体介助」のヘルパーさんの終了時間になった。

 二人になると、安定剤が効きすぎて眠ってしまわないかぎりは、ベッドのそばに座って一週間の様子を訊ねてくれたり、Oちゃん自身が出逢ったエピソードを聴かせてもらった。
 ほんとうにしんどい日は、頬杖をつきながら黙って見ていてくれた。

 その日そのときの気持ちは、ほとんど話したかな…。
シフトが変わり、わが家から離れる直前のころは、ずいぶんぼくも落ち着いてきていたし、共通の知りあいのご夫婦の話題で時間を忘れそうになったっけ。

 でも、支えられているだけの重たさは感じられなかった。
 ほかの気心しれたヘルパーさんだと、息子みたいであったり、友だちみたいであったり、ご近所さんみたいであったり、その人も仕事中だから、働くためのスイッチをオフにする瞬間はないにしても、それぞれの場面によって濃く醸しだされる関係性は「ひとつ」に近い。

 沈黙もふくめて、どんな話をしていても、どんな仕事ぶりを眺めていても、どのカテゴリーでもない「安心できる空間?場所?存在?…」、およそこれまでぼくが出逢ってきたあらゆる感情のすべてを包みこんでしまう世界を、彼女は持っているに違いない。

 「Oちゃん、ありがとう!」
 「Oちゃん、また来て、おいしいもんつくってや!」
というふうに、軽くまとめようとしたら、おなじみの介護技術および人生の探究者「永井くん」が、ぼくの心だけではなく、体中に出没して思いのままに言葉をあやつり、この投稿を長引かせようとしているみたいだ。

 この間から、永井くんの同僚のヘルパーさんたちと彼の奥深さについてよく話している。
 世間では、よく「あいつはリベラル派やなぁ」とか、「あいつは秩序を重んじる考えかたやなぁ」などと、要するに右や左やとレッテルを貼りたがるし、ある程度はどのあたりを土俵にしているのか、つき合いが長くなれば知らないうちに相手の応えを察して、身構える自分がいる。

 けれど、永井くんはどこにも当てはまるし、どこにも当てはまらない。
一人ひとりの暮らしや命を全否定するような価値観以外は、すべてを受け容れているというか、自分の中に吸収しようとしているというか、永井くんといっしょにいるだけで、気持ちが安定する。
「安定」というややカタイ表現が永井くんを連想するだけで、血の通った安心感に変身してしまう。
 凄い。

 Oちゃんと永井くんは、どこか点描画に相通じるところがあるのかもしれない。
 
 出来合いのお惣菜でも「旨いものはウマい」という内容を書くつもりが、根っからの身内ネタにかわってしまった。

 本物のOちゃんや永井くんといっしょに過ごすことができれば、みんなセコセコ生き急がなくてもよくなるかもしれない。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?