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犬小屋にて

 ふたりとも、ずいぶん酔っぱらっていた。
住宅街のこじんまりとした焼肉屋で、好物の塩タンやハラミをたらふくいただいた帰り道だった。

 なんとなく人の気配が薄らいだので、ぼくはふり返った。
そこには、等間隔の街灯に照らされた道が伸びているだけだった。
車いすからベッドまで抱きかかえたり、パジャマに着替えさせたり、シビンを受けたりしてくれるはずの彼の姿はどこにもなかった。
 ぼく自身、酔っぱらっていたから、一瞬アッケにとられたあとは動揺するどころか、じんわりと笑いがこみ上げてきた。
 なぜだか、よくわからなかった。

 頬をゆるめながら街灯をいくつか戻ると、道ばたに犬小屋が見えた。
その前を通りすぎようとすると、両足を折りまげて休んでいる小屋の主のそばに見慣れた寝顔があった。

 主はブラックポインターの少年犬(?)だっただろうか。
よほどおとなしい性格なのか、見知らぬ男性の出現にも寛容な表情をして、まるで人が横たわれるスペースをつくっているかのようだった。
 ぼくは犬小屋の侵入者の名前をくり返し呼んで、やっとのことで目覚めていただいた。
 夜更けだったし、心やさしい犬小屋の主の飼い主さんにはお礼を伝えないまま、わが家へと急いだ。
 この一幕が終わるまで、主は前足に顔を乗せながら物静かな視線をぼくたちへ投げかけていた。

 ぼくの寝る準備はうまくできたけれど、翌朝、彼に犬小屋で居眠りしていた話をすると「ウソやぁ~、オレ、なんぼ酔っぱらってても、そんなことするかいなぁ~」と、信じてはもらえなかった。

 彼は、下町の中学校の美術教師をしていた。
介護制度がほとんどなかったころ、ぼくの夜の生活を支えていた教職員組合のメンバーのひとりだった。
 およそ三十名前後の教師が一ヶ月~二ヶ月に一回~二回の割合で、仕事を終えてから翌朝まで、それぞれのカラーは違っていても、気持ちよくおつき合いしていただいた。
 いろいろなハプニングが起こって、わが家へたどり着くのが深夜近くなっても、友だちに会いに来たような雰囲気だった。
 本当に助かった。うれしかった。ありがたかった。

 泊まりをサポートしてもらっていたこともあって、小中学校へ講演に招かれるようになった。
 彼が働く中学校から依頼がきたのは、山にかこまれた施設での集団生活からまちでのひとり暮らしにもずいぶん慣れて、ドンドン雑踏の中へもまぎれこむようになった時期だった。

 講演の担当は彼だった。
「うちの子どもら、生活がしんどい家が多いさかい、むずかしい話はなしにして、おもいきり笑わしたってくれへんかなぁ。『ためになる話』したかって、大人になってからほとんど憶えてへんやろ。それやったら、ハラ抱えて笑ろうて、なんかの拍子に『オモロイ車いすのオッサンいよったなぁ』って、思い出してくれるヤツがひとりでもおったら、メチャメチャうれしいやんか」
 正確ではないにしても、彼のリクエストはこんな感じだった。

 ものすごく、納得した。
 たしかに、養護学校時代に聴いた講演の内容など、なにも憶えてはいない。
しんどい体験を話すことが大切なときもある。
でも、障害をこえて響いてほしいときには、笑いがいちばんの特効薬だし、山にかこまれた施設とは別世界の空気に興奮していたころだったから、中学生を爆笑させるネタはつきないほどに、町角のあちらこちらで出逢っていた。
 また、深夜ラジオみたいな話をしても、ゆるされる時代だった。

 話のあとの質問の時間に、クラスの人気者らしい男子が勢いよく手をあげた。
「どんなアダルトビデオを観ていますか?」
さすがに、ちょっと面食らってしまった。
 ただ、講演の担当だった彼が「どんな話になっても、オレが責任を持つから」と言っていたので、正直に話した。
「ぼくはビデオを観るよりも、レンタル屋のカーテンで仕切られたコーナーに入って、タイトルを眺めながら妄想するほうが好きやわなぁ」
 いちばん盛りあがった瞬間だった。
 
 いまから二十五年前のことだった。
あのときの子どもたちは、三十代後半をむかえている。
なにかの拍子に、車いすのベタなオッサンを思い出した青年はいたのだろうか。
 いや、思い出してもらえなくても、あの時間に何度も大爆笑を取れただけでも、ぼくの願いは達成できたに違いない。

 あれほどドスの利いた声をして、あれほど目つきが悪くて、気持ちのやさしい人をぼくは知らない。
 うちの作業所のパンが安定した味を出せなかったころ、売れ残りを車いすの背中に提げて中学校の職員室を訪ねると、いつも仕事の手をやすめて猫背の彼が小走りで近づいてきた。ポケットの小銭をさぐりながら。
自分が買うだけではなくて、まわりの人たちにも声をかけてくれた。
作業所の運営を案じて「どうや、作業所のカネのやりくりは…?」などと、気遣ってもらっていた。

 一週間ほど前、駅前で彼とすれ違った。
久しぶりだった。
体調を崩しているという話も聞こえてきて、いつのまにか、ぼくの記憶は彼をあの世へ逝かせてしまっていた。

 なつかしい人に会えた。
 すこしだけ、長生きしたくなった。

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