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白いかっぽうぎ

  先日、姉に電話をしていて祖母の話題になった。
  「おばあちゃんほど、アンタのことを心配してくれてた人おらへんで。死ぬまでずっとアンタの名前をつぶやいてはったわ・・・」
    姉も六十代後半になった。
さまざまな感慨がひしめきあっていたからなのか、言葉をさしはさむ間がないほどの口調は影をひそめ、一言づつを区切りながら話してくれた。
 
 障害をもたない子どもたちが保育所へ通う年頃のぼくの記憶には、いつも祖母がかたわらにいた。
 炊事場で、大家族の食事の支度を要領よくこなす背中を奥座敷から眺めていた。
 夕食の献立を想像するのが毎日の楽しみの一つだった。
 尋常小学校を卒業して船場へ奉公に出された祖母は、同年代の女性と比べると、段違いのレパートリーの広さだった。
 
 施設や養護学校を渡り歩き、たくさんのメニューを味わい、食いだおれのまち「大阪」でのひとり暮らしで、ぼくの引き出しの中身はさらにパワーアップした。

 それでも、ヘルパーさんにお願いする毎日のおかずの基本には、すこし濃いめの祖母の味つけがある。
 祖母は工夫の人だった。いまはあたりまえになったトンカツやシーチキンを具材にした巻き寿司も、夕飯の食卓には早くから上がっていた。山陰の山にかこまれた町だったことを考えると、祖母のアイデアだったのだろう。
 
 ぼくの生活にも、障害のある孫の特徴をとらえたアイデアが活かされた必需品が産まれた。
 その一つが座椅子だった。祖母が絵を描いて近所の大工さんにお願いしたものは、ひと工夫もふた工夫も重ねられていた。
 身体が左右に倒れないように、上体にそわせて板があてがわれ、お尻が前にずれないように、座面の前端が十センチほどの高さで直角に立つように工夫されていた。
 
 大便用の道具も、祖母の柔軟な感性からうまれたものだった。
火鉢を置くときに使う木枠の足を適当な高さに切り、本体を乗せる円形部分にスポンジを巻きつけ、さらに丈夫なさらしを補強する。
木枠の下の内側には、工事現場の肉体労働者に使いこまれたようなアルミ製の大きめの弁当箱がすっぽり入る台が便を待ち受けていた。
 まだ小柄だったぼくは背後から祖母に抱えられ、円い木枠の上にお尻を乗せると、ぴったり身体ははまりこみ、両肩をかるく押さえられるだけで全身がブレることなく、用を足すことに集中することができた。細身だったとはいえ、身長百六十センチをこえる思春期となっても使いつづけていたのだから、相当のすぐれものだった。
 
 大便といえば、思い出すエピソードがある。
父親の育ての親だった近江今津の叔母から、手づくりの鮒寿司が送られてきたときだった。
 ぼくを長生きさせることに必死だった祖母は、大胆な食生活にチャレンジさせた。
 鮒寿司が届いた午後もそうだった。水色の大きなビニール袋に丁寧に荷造りされた中から木樽が現れると、それだけで発酵した強烈な臭いが十二畳ほどある座敷にあっという間にひろがった。
父親が店から奥座敷までの長い通路を走ってきて、ぼくに声をかけた。
「康の手におえる代物じゃないで」
 祖母が割って入った。
「やっさんは大人みたいな子やから、イケルかもしれん」
 白ごはんに乗せて食べると、素直に旨かった。
 
 それから数日、ぼくと父親は競うように食べることになった。
そのころ、ぼくは見事なまでに毎朝の便通が快調だった。
 ただし、大変なことが待ち受けていた。
鮒寿司が消化したあとの大便の強烈な臭い。
 火鉢を乗せる木枠を工夫してつくられた祖母の大傑作に跨がると、すこし前傾姿勢になるので、するりとヤツはこの世に誕生する。
 ぼく自身がえずいてしまうほどだった。支えてくれている祖母に訊ねた。即座に返事が戻ってきた。
「おばあちゃん、蓄膿症で鼻が臭わへんの、知らんかったか?」
さらに、こんな言葉がつけくわえられた。
「わたしはなぁ、やっさんの世話をするために生まれてきたと思うんや。そやさかい、あんまり気にせんでもええでぇ」
  
 最近、ぼくの中でブレることがなかった常識の一つひとつに対して、考え直してみたくなることがある。その主役格に「障害者でよかった!」がある。
 ぼくの記憶のはじまりの多くには、祖母の姿がみえる。
 大きな乳母車を押して、町のあちらこちらへ連れて行ってもらった。
行き先は、ぼくの希望にできるだけ添うものだった。商店街の肉屋の店先で、いつまでもコロッケが揚げられるところを見ていることもあったし、駅のはずれから蒸気機関車や電車が停まったり、動きはじめるのに興奮することもあった。
 とても痩せていたし、手足はバタつく。身体は小さくても、乳母車に乗る年齢ではないことぐらい、誰にでもすぐに察しがついただろう。

 それでも、知り合いに出会うと、次々に自慢話が聞こえてきた。
言葉も、オムツがとれるのも、兄弟の中でいちばん早かったらしい。テレビで流れた歌謡曲をすぐに口ずさんだ。プロ野球選手の名前やニュースの字幕で、自然に漢字を覚えた。
 「障害」をもって生まれてきた裏返しとして、祖母にとっては特別な孫だったのだろう。テレビの「万国びっくりショー」へ出したいと、残念そうにつぶやいていたことを思い出す。
 
 一時期、疑問が湧いたことがある。もし、「ぼくが知的障害をもっていたら…?」と。
その答えにはとても関心はあるけれど、もう聴くことはできない。そうであれば、その問いを祖母にオーバーラップさせて考えても仕方がないと思うようになった。

 ある夜、祖母が亡くなってしまった夢を見た。
目が覚めると、天井が落ちてきそうになるほど、泣きじゃくった。
 そばに寝ていた祖母は、いつまでも泣き止まないので、困り果てたすえに寝巻きの胸元をゆるめ、ぼくの口元へ乳首をさしだした。たぶん、三~四歳だった。思わず前歯で噛んでしまった。
 何げなく過去を思い出すとき、鮮明によみがえるいくつかの感触がある。その記憶の中で、いちばん早く、はっきりと残っている瞬間があの夜の出来事だろう。

 物心ついたばかりのぼくを町へ連れ出してもらえたことは、その後、世の中の幅広いジャンルのものに興味をもつだけでなく、パーソナルなこだわりと感覚の基本を育ててもらった。
 そのこだわりと感覚を通して、大切な人との出逢いとつながりをつくることができた。

 最近、思うようになったことがある。祖母は、他人の力を借りなければ生きていけないことを察し、たくさんの人を引き寄せられるように育ててくれたに違いない。
 不思議な偶然の連続で、これまで生きてこられたと勘違いしていたのではないだろうか。
さまざまな感情が交ざりあった毎日の中で、いつも支えてくれた一人ひとりや唄の一つひとつとの出逢いは、祖母がぼくの人生に蒔いた種が育った結果だと思うようになった。
 
 この文章を書きながら、気がついたことがある。
 ぼくは、母親の最期しか見送ることができなかった。
お墓参りをしたこともない。車いすでは、傍まで行くことができないかもしれない。
毎日を感謝しながら、自分らしく生きるだけで許してもらえるだろうか。けれど、せめてお寺の門までは訪ねてみたい。

 いつもランダムに音楽を聴きながら、過ごしている。不思議なことに、その場面にぴったりの唄が流れる。ぼくはこの引き寄せる力とつきあい、どこまで生きていけるのだろうか。

 昨夜も東北が揺れた。このあたりが揺れるのも近いだろう。強い揺れがくるとこの文化住宅ではもたないだろうし、構造的に逃げることもほぼ不可能だろう。そのとき、何かを引き寄せる力は働くのだろうか。
 ぼくは、その答えをまだ知らない。

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