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転職を決めただけの話

こんにちは。まつのです。
ご報告です。

この度、現職である放課後等デイサービスでの児童指導員を辞し、教員として働く決心をしました。

その、主な理由は「やってみようと思ったから」です。軽いなぁ。

「○○な子どもを育てたい」という思いや、理想の教師像もとくにはありません。ただ、興味がわいたというだけです。もともと「高校のソフトボール部の監督になってインターハイに行きたい」という思いがありましたが、そのようなものはすでに無くなっています。

私は教育大学の出身であり「教員になりたくない」と思ったことはありません。機会があればやってみよう、と思っていました。

では、なぜ今までしていなかったのか。(ここから常体です。)
それは労働環境によるところが大きい。学生のころの教育実習で、これでもかというほどの多忙と多忙感を味わった。睡眠時間を削って授業の準備をして、たとえ眠れたとしても1時間おきに目が覚めるような、おちおち眠ってもいられない戦場を味わった。忙しくて「大変」というよりは「恐怖」が大きかった。

このまま自分が教員になったら、必ず潰れてしまうに違いないと確信した。

そのような経験から、私は教職に就かなかった。

でも、教職をどうでもよいものと斬り捨てたことはない。この環境が良くなれば、自分も教員になりたいと思っていた。そして、この環境のなかで頑張り続ける教員や、これから教員を目指す人のために力を尽くしたいと思っていた。

教員の多忙の問題は全国規模のものだ。だから、私は全国各地の学校現場にコミットできる方法を考え、私が文部科学省の一員としてその問題に取り組めばよいと思った。

しかし結果は散々なもので、文部科学省に入ることすら叶わず、この試みは頓挫した。

だからといって、学校の働き方について関心がなくなったわけではない。私の仲間の多くが教員をしているし、その幸せを願ううえでとても重要なことである。

私は「これからも学校の働き方について考えていきたいのであれば、一度くらい教職についたほうがよいだろう」と思った。

百聞は一見に如かず、という。
今から開くのは地獄の釜だが、ちらっと見るだけにしよう。怖くなれば、身の危険を感じたら、頭と体が動くうちに逃げればよい。

なにも、教職と心中しなければいけない決まりはない。高い理想や立派な心意気があり、使命感に燃えていたとて、自身が潰れれば意味がない。

心は燃え尽き、高いところに行くころにはすでに灰となっているだろう。

だから、私は生き残ることだけを考える。教職にこだわる気はない。

少しでも働けば、どこかで学校の働き方改革に資するところもあるかもしれない。

さぁ、軽い気持ちで行ってみよう。

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