埋め立てられた川と橋があった場所(西堀留川)
少し音楽ネタが続きましたが散歩は続けていました。今回は最終的に関東大震災の震災復興で埋め立てられた川です。
日本橋川から分流する形で、堀留川と名の付く掘割が2つあったのをご存じでしょうか。その1つが西堀留川、もう1つが東堀留川です。今回取り上げる西堀留川があった事を示す史跡板はもと小舟町記念会館(現在ビル建替え工事中)手前の囲い板に貼ってありました。
調べているうちに、この史跡説明が貼られている場所が合本安田銀行(後の富士銀行:現在のみずほ銀行の前身)の開業の地だということを知りました。お隣のヒューリック小舟町ビルにあるみずほ銀行小舟町支店の植込みに「富士銀行創業の地」の碑があるのですが、実際の場所はこちらだそうです。現在建設中の建物は都市型データセンターになるそうです。街の変化としては当たり前の流れなのでしょう、でもちょっともやっとします。
西堀留川があった場所はこの辺りになります。L字形に折れたような掘割でもとは伊勢町堀という名前でした。
西堀留川跡地の散歩はここからスタートしました。コレド室町1・2の近くに建てられている福徳神社。この辺りが伊勢町堀の堀留だったようです。(西堀留川があったのは右側の道路の位置です。)
雲母橋(きらずはし)
角にスタバとローソンがあるワンブロック先の交差点が雲母橋が架けられていた場所と思われます。橋の名前、こんな読み方をするのですね。
西側の細い掘割の両岸は塩河岸で、名前のとおり塩を専門に荷揚げされていたそうです。
道浄橋(どうじょうはし)
下は江戸後期の地図です。江戸橋から続く道路とこの川の交点に架かっていた橋が道浄橋です。橋の名前の由来は、昔この辺に道浄左衛門という人が住んでいて、その家の前にこの橋があったからのようです。
橋の場所は位置的にはこの辺だと思います。今の地図と照らし合わせると道浄橋が架けられていた道路が現在の歩道に重なるので、ちょうど写真を撮っている位置が橋があった場所と思われます。
この先の道を右折して一本内側の道路が(下の写真の黄色い矢印)折れ曲った東側の川筋です。
日本橋川に向かってこんな風に掘割が伸びていたことがイメージできます。
明治16年(1883年)に伊勢町堀は西堀留川に名前が変わります。そして、明治19年(1886年)に道浄橋や雲母橋が架けられていた西側の水路が埋め立てられます。埋め立てられた理由は、この近くの常盤小学校の管理・維持を図るための施策としてのようです。西側の水路と両岸を埋め立てて小学校の付属地とし、貸地料を徴収して区費の補充とした、ということが京橋図書館の資料(郷土室だより)に書かれています。この事業にかかった費用は町の有志の寄付だったそうです。この事業により西側の川は消滅、雲母橋と道浄橋は撤去されました。
中ノ橋(なかのはし)
中ノ橋はその当時存在した伊勢町と小舟町の道を接続するように架けられた橋でしたが、区画整理により道路の位置が変わり、現在は建物が建っています。つまり交差点などではない道の途中です。今昔マップを見ながら歩いた結果がこの辺でした。
この先を進むと常盤稲荷神社があります。
東側の川の両岸には米河岸、小舟河岸、鰹河岸、醤河岸などがあったようです。
荒布橋/荒和布橋(あらめはし)
日本橋川との合流点手前に架けられていた橋です。日本橋の北詰から人形町に向かっている道路のちょうど真ん中辺りに小舟町(こぶなちょう)交差点がありますが、そのすぐ近くに架けられていました。いまの場所はこの辺りじゃないかと思います。隙間からチラッと高速道路の高架橋が見えていますが江戸橋の近くです。
あらめ橋の漢字表記は「荒和布橋」と「荒布橋」の2つが存在します。どちらも正しいのでしょう。
それから、この橋は以前「志あん橋」と言われていたことがあるようです。昔この付近に元吉原があり、行こうかどうしようと「思案」することが由来だったとか。吉原由来の地名がまた出てきました。寛文期(1661年~73年)に荒布橋と名前が変わったそうです。「あらめ」とは昆布・ワカメなどの海藻類の事だそうです。
実は「思案橋」はすぐ近くの東堀留川に同じ名前の橋があります。道浄橋で貼った地図にも載っています。(なので次回も出てきます。)
西堀留川の東側の水路は、関東大震災の瓦礫処理の対象となり、震災復興事業により埋め立てられます。それにより中ノ橋、荒布橋は撤去されました。
次回は東堀留川です。
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