見出し画像

埋め立てられた川と橋があった場所(竜閑川その2)

前回の続きです。

地蔵橋(じぞうはし)

昭和通りに架けられていたのが地蔵橋です。地蔵橋の跡地には東西の橋詰にあたる場所に公園があるのですが、見出し画像の記念碑は西詰の地蔵橋公園(中央区側)に立てられています。

上の写真はその記念碑の裏側です。設置されている場所の後ろに道路がありますが、それが竜閑川の川筋で区境です。道路の向こう側は千代田区で、以前は地蔵橋西児童遊園があったのですが、いまは保育園神田ベアーズと公衆トイレになっています。

この記念碑は左側の刻印を確認する限り昭和30年のもののようで、漢字がところどころ旧字体です。それらを新字体に改めて文字に起こしました。

竜閑川の由来と埋立
江戸砂子や新編江戸志には約ニ百七十余年前の天和年間に防火のために掘ったもので神田橋と常盤橋の間から外濠の水を東方にあった浜町川に注ぐその両岸は石垣でたたみ川巾六間神田堀と呼んだ、元祿四年にも堀った 安政四年四月土手を崩して堀を入ロの竜閑橋だけ残して埋めたが明治十六年再び堀って防火用雨水用とした 川名を竜閑川と名づけた、昔時この川の西端に住んで居た井上竜閑は江戸城つとめの殿中接待役「お城坊主」として有名であった、後その所を竜閑町といった、当時神田堀の別名に八丁堀火除堀、銀堀等といわれ堀の堤を八丁堤といって松を並木に植えた時代もあった 川には舟の往来もあったが近頃下水より汚水流れ込み悪臭を発散しごみを捨てるため蚊蠅等わき衛生上宜しくなく川は全く無用のものとなった、東京都は第二次世界対戦直後川底に大下水管を埋設して戦災焼残土を以て埋立て宅地をつくり復興を促進する計画をした神田及日本橋より選ばれたる連合委員会は賛意を表し将来を推察して新埋立地を土地現住の人々に払下げられたき件を申請し中間に立ちて其労をとる事を願出た昭和二十五年三月埋立工事竣工しこの大事業も滞なく完成した
今回もと竜閑川のあった中央地点地蔵橋際児童遊園の東北隅を選び東京都の御承認を得て竜閑川埋立記念碑を建立したのであります
この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって神田日本橋区民の親和を増進するもの 昔は川今は竜閑新道を中心に精励努力以て土地の発長に尽くされん事を

竜閑川埋立記念碑より

文字が無理に詰め込まれている感があり「、」で区切られたり隙間がなかったり改行されてなかったりで、ちょっと読みにくいです。
さて、ここから昭和通りを渡って東詰に移動します。昭和通りと首都高速の高架橋の間に本町歩道橋が架けられていて、首都高の下をくぐって渡ることができます。歩道橋を渡るとこんな感じで高速道路が目の前です。

歩道橋を降りるとそれぞれの区の公園が隣り合わせで並んでいます。
こちらは中央区の地蔵橋南東児童遊園。

奥に見える木立は千代田区の公園です

こちらは千代田区の地蔵橋東児童遊園。公園名の表示がこれ以外見当たらず…見落とした?

奥の青いぶらさがり遊具が見えるのは中央区の公園です
木陰の木の切り株のような腰掛?には
いつも鳩が止まっているようでした
千代田区の公園にある神田八丁堀跡の史跡看板
竜閑川の歴史です


火除橋/待合橋(ひよけはし/まちあいはし)

ワンブロック歩くと火除橋(江戸時代は待合橋だったようです)があった場所に着きます。もともとこの辺りは土手だったらしいです。

この道をなんとなく右手に進み少し迂回。学校みたいな建物で左に曲がり少し歩くと「十思公園」(じっしこうえん)にぶつかりました。

公園らしからぬ門だなと思いながら入っていくと、周囲に石碑があったり鐘があったり。公園を利用している人はそれなりにいたのですが、何故か普通の公園とは違うような気配を感じました。公園を見て回っているうちにそう感じた理由がわかりました。

江戸時代、この地は伝馬町牢屋敷だったそうです。安政の大獄で投獄されていた吉田松陰はここで処刑され29歳の生涯を閉じています。十思公園には吉田松陰の碑が立てられています。

江戸時代の地図より
右は「松陰先生終焉之地」と書かれた碑
中央は吉田松陰の辞世の句が刻まれた碑
左は吉田松陰顕彰の碑
十思公園の案内
ここには史跡がたくさんあります
江戸市中に時刻を知らせた石町時の鐘です
時の鐘通りを挟んだ向かいには大安楽寺があります
伝馬町処刑場跡と書いてあります

学校みたいな建物だと思ったのは廃校になっている旧十思小学校の校舎を利用した十思スクエアでした。竜閑川をまっすぐ進まずここで右に折れた自分、何かを感じたのかもしれません。この寄り道がなければ気づいていませんでした。もと川巡りの旅は足を運んだこともなかった場所に連れてきてくれます。

九道橋(くどうはし)

軌道修正して九道橋のあった場所へ。この通りは人形町通りで、右に行けば人形町の駅前通り、左に行けば岩本町です。

千代田区側の道路沿いに岩本町一丁目の町名由来板
今だったら食い入るように見ちゃいます

甚兵衛橋(じんべえはし)

甚兵衛橋が架けられていたのは大門(おおもん)通りです。大門通りの由来は、明暦三年の大火までは旧吉原遊郭が人形町辺りにあり、吉原の大門(つまり入口)に繋がっている通りだったことからだそうです。吉原が浅草(現台東区千束)に移ってもそのまま定着したということになるのでしょう。

この先の緑がゴール


玉出橋/幽霊橋(たまではし/ゆうれいはし)

ここが浜町川との合流地点です。橋の名前は江戸時代は幽霊橋と呼ばれていたようです。玉出橋も幽霊橋も由来はわかりません。

公園自体に境はなく繋がっています。中央区側から入れば龍閑児童遊園、千代田区側から入れば龍閑児童公園です。

向かって右側、中央区は龍閑児童遊園
竜閑川と玉出橋を再現?
つまりここが区境です
左側、千代田区は龍閑児童公園です

今回の散歩も意外と内容が濃かったです。散歩をした時はウロウロしまくるだけで、実際は記事を書きながら新たな情報を知り、見逃した?と思ったところがあれば取材のために再び足を運んでいます。今回もその後の取材訪問がけっこう多かったです。

帰宅時に会社から日本橋辺りまで歩くことがよくあります。案外あっという間なので、中央区を歩いて縦断できるかも、中央区の北の端(千代田区との堺)ってどこ?と意識したことがあります。今回の散歩がまさにそれを教えてくれました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?