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言葉にしていく効能 #010

ちょっとご無沙汰です。
わきゅうです。

noteの更新から離れた途端、自身の創作意欲みたいなものがぱったりと止んでしまいました。どうも、毎日こうして文章を書いていかないと停滞、どころか逆行してしまいそうな日々です。何かをしていると気が紛れる。ので、また書いていきたいと思います。

ここの所、崎山蒼志というミュージシャンに嵌っています。数年前に高校生シンガーソングライターとしてバズってたあの人です。

彼の弾くギターも、彼が歌う歌も素晴らしいです。
今日は、彼の書く詩についてちょっと話してみたいなあと。

何かのインタビューか対談で、崎山氏は作詞についてこう言ってました。「言葉にできない感情と出会った時、それを言葉にする様に心掛けている」と。

それを聞いた時、目からウロコな気もしましたし、なるほどと合点がいった様な気もしました。いずれにせよ、言葉にならないものを言葉にしているから、崎山氏の歌は儚くて強くて美しいのかなあ。と。

例えば赤く染まりかけた空を見上げた時の気持ち、遠くの地を一人歩く際に地元の学生とすれ違った時の疎外感、自分以外のもの全てが自身に悪意を向けているように感じた時の理不尽。そんな風に湧いてきた正体不明の感情と向き合って針に例えてみたり、不安定な夜がこびりつくと表現してみたり、崎山氏はしているのかなあと思います。

赤く染まる空を見上げた時、なんだか胸が痛い気がしたとしたら、何故空を見上げると胸が痛むのか?掘り下げてみる事が大事って事ですね。ここまでを言葉にすることはできても、それを納得するまで掘り下げるのはなかなか難しいです。深い理由なんてなくて、昔の恋人かなにかが同じ空を見上げている気がして、それでセンチメンタルを感じているだけかもしれません。掘り下げた時に、自身の浅ましさみたいなものに触れる様な感覚、これと向き合うのはそれはそれでしんどい問題な気もします。掘り下げればなんでもかんでも美しかったら、簡単ですよね。

とはいえ、それが詩を書くことの第一歩なのであれば、向き合っていくしか無いみたいです。今は全然ダメですが、数をこなして、がんばりたいです。

話題が変わります。

崎山氏の書く詩は素晴らしいですが、更にその素晴らしい詩に影響を与えた作品がある様です。影響というのは、顕在的に引用される場合もあれば、潜在的に書き手の思考に影響を与える、文章の雰囲気だったりと、今回はそのふたつを指すものと考えてもらえればと思います。

彼は好きな小説に、「夢野久作のドグラ・マグラ」「内田百閒の冥途」「中村文則の教団X」を挙げていました。偶然にも冥途以外は読んだ事があったのですが、言われてみれば崎山氏の詩には前述する作者をリスペクトして書いた様な雰囲気があるように思われます。彼自身、内田百閒が土手を三途の川の比喩として使うことに感銘を受けたと発言していますし、実際に彼の「花火」という曲の中では土手という名詞が盛り込まれています。

「土手」という名詞はそこまで詩に使われるものでは無いですが、彼なりの意図があって配置されたものなのだと思われます。花火は曲中では「満開の刹那」と喩えられており、このセンスにも頭が上がりませんが、「三途の川=命の儚さ」のニュアンスを持つ土手がBメロに置かれることで詩全体を俯瞰した時に更に奥行きが出る様な気がしています。

彼の様に、読み終えた作品を昇華して自分なりの作品にする事ができたら、どれだけ楽しいだろうと思います。駄作に思える様な模倣品を100個作ってでも、その先で出会える傑作に向けて、手を伸ばし続けたいところです。

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