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何のために学校で学ぶのか?何のために学校はあるのか?何で学校に行きたくなくなるのか?考えたことがなかった、と気づいた。

自分で会社を作ったことで得られたものは時間と自由だ。そして、責任と自分が動かないと何も起こらない、ということを知った。わかっていたことだが、自分でやってみるのと想像しているのはえらい違う。今回はその副産物について書いてみる。また考えがまとまっていないのに、書きたくなって、書き始めた。

家の横に森がある。というよりは、森の中に家がある、というのが正しいかもしれない。聞こえるのはキジの声、小鳥の声、昨日は天気が良かったので春蝉が鳴きだして、山にも初夏が訪れる前触れがあった。しかし、春の代名詞のようなウグイスも鳴いている。(ウグイスは春でなくても鳴いている、のは横浜の自宅のお隣にも年がら年中ウグイスが鳴いているから。それがなかったら、ウグイスは春にしか鳴かないのか、と勘違いするくらいにウグイス=春と思っていた節がある。)学校ってそんな事象とよく似たものではないかとふと思った。

昨年の3月に起業し、あっという間に1年が過ぎた。約2000人の小中高校生にオンラン授業を行った。海外の日本人講師ということが多く、それは子どもたちに日本の外を身近に感じてもらいたかったから。高い位置から日本や自分を見るには、今の常識から抜け出すことが必要で、そのためにはきっかけがいる。世界に飛び出した日本人の方々は快く講師を引き受けてくれた。しかし、無報酬で事業を継続するのは難しく、その上、一度の授業だけでは気づいてもらえる子どもたちの数は限定的でどの方向に拡大すべきかと悩みに悩んでいた。すると先ほど別のことに気がついた。学校へ行くのが当たり前、という考え方の脅威だ。義務教育は日本では中学までだが、ほぼほぼ高校までが義務教育と言って良いだろう。

文科省が公表した学校基本調査(確定値)によると、2021年度の大学進学率は54.9%で過去最高だったことが分かった(前年度比0.5ポイント増)。短期大学と専門学校を含む高等教育機関への進学率は83.8%で、こちらも過去最高だった(同0.3ポイント増)。

大学進学率が過去最高 文科省「学校基本調査(確定値)」

中学から高校への進学率は97%、そしてその上の高等教育への進学率は8割を超える。この若者たちは目的を持って大学や専門学校に行ったのか、を疑問に思った。(不登校が21万人と言われる中、進学はした=籍はある、ものの学校には行っていないという数字も含まれているのだと思う。定義は設定しないといけないので、それはそれで良いだろう。)さて、これらの若者の何割が自分がさらに学ぶ意味を見つけて進学をしたのかが甚だ疑問である。背景には、小中高と進学する意味を考える時間はなかったのではなかろうか、と疑問に思ったことがある。「自分はなんのために学ぶのか?」と疑問に思う機会は考える時間がないとなかなか出くわせない。考える暇がない、なんて以前はよく言っていた気もする。今思えば、それは問題でもあり、その上、小さい頃から考える習慣がなかったのではないかとも思う。(そうに違いない。考えている暇があったら勉強しろ、練習しろ、みたいな風習はあった気がする。)

さて、タイトルに書いた何のために学校に行くのかについて考えてみたいと思う。まず、仮説を立てる。

・学校へ行くのは当たり前だから
・みんなが行くから自分も行く
・中学までは義務教育だから行かないといけない
・高校くらい出ていないと格好悪いし、良い仕事につけない
・みんなが行くから高校に行く
・みんなが行くから大学・専門学校に行く
・今行っている大学・専門学校は高校の成績で行けるところを選んだ
・高校や大学の選び方は偏差値重視。できるだけ偏差値の高いところに行くことが良いことだと思っていたから。

全ての人が当てはまるとは思わないが、多くの若者(だった人も含む)が漠然とそう思っていたんじゃないかと思う。私はこどもの頃、母や叔母に「女の子は大学に行ったら就職や結婚に不利だから短大に行ったほうが良い」と言われた。これは田舎だったからかもしれない。私は調べることもせず、疑問にも思わなかった。それよりも前の話になるが、小学校卒業の時にアメリカへのスタディツアーを申し込んだのだが、従兄弟のお兄ちゃんに「英語が話せるようになってから行ったほうが良い」と言われてキャンセルした。彼は高校生で英語が話せたのだが、私は「高校生になったら誰もが英語が話せるようになる」と思い込んでしまった。いまだに悔やんでいる。こんなことがたくさんあったのに、なぜ「考える人」になれなかったのだろう。それはきっと、言われたことをする、当たり前・常識を良しと思い込むことに慣らされていたからではないかと今頃気がついた。

時代は変わった。コロナで世界中の人とオンラインでもやりとりができるようになった。もちろん英語が話せれば、である。翻訳ツールがいろいろある、というがそれは補助ツールであり、自分が直接話したり、怒ったり、感激を伝えたりできるほうが良いに決まっている。ましてやビジネスや人生の岐路で即断即決を迫られる時などは特に。が、今日は英語の話ではないので、この話はまた次に。

藤井聡太さんが高校時代に「なぜわかっているのに宿題をしないといけないのか?」と学校に疑問を呈したことがあったと思う。それをニュースにした記者はすごかった。それは日本の教育に対する疑問・意見だったのだと私は思う。しかし、彼が有名人だったために問題はすり替わって人々に伝わった。藤井聡太さんがすごいのだ、と。彼はすごいと私も思う。しかし、これは彼だけの問題ではなかったのだ。何のために学校に行くのか、という大きな投げかけだったのだ。彼の高校3年間の所定の学びが完了していても、今の日本の学校制度では履修単位や出席日数で卒業できない可能性がある。それは本来はおかしい話である。学校に行くことが目的化しているからに他ならない。

小さい頃から自分で選択する機会をたくさん持てば、きっと日本の若者はもっともっと世界に出ていくことができると思う。数年前までは、私は若返りたいとか、あの頃に戻りたいと思うことはなかったのだが、最近は昔に戻ってやり直したいと思うようになった。もっともっといろんなことを考えて、選んで、自分の目的のために手段を講じたり、周りの人を巻き込んだり、そんなことがしたかった。学校という友人や大人と長い時間を過ごす場所は、考えて、議論して、選択して、時には失敗して、不本意だけど誰かのサポートに回ることがあってそちらが正しかったとわかったり、、、そんなことが若いうちにできる場が学校なのではないかと思う。多数決が正しくないこともある、少数意見が正しいこともある、年上の人が間違っていることもある、教師や大人と議論して子どもたちが正しいこともある、そんな場を子どもたちに提供したい。(本当に私にできるかな?)

こんなことを思う背景の一つには明後日に息子の高校の卒業式があるからだ。息子の人生は、もしかしたら完全に私に振り回されたかもしれないと今(少しだけ)反省している。彼がどの大学を選ぶかはまだ決まっていない。彼がたくさんの選択肢を持てるサポートは、私なりに最大限にしてきたつもりだ。しかし、私がもっと世界・世間を知る大人だったら、彼の選択肢はさらに広がっただろうから、どんな大人が近くにいるかで若者の未来は大きく変わるのは間違いない。教育は不平等だとつくづく思う。そして教師や親の役割を見直す時期が来たのだ。どの地域に住んでいても良質の学びを無償で得られる社会にもすべきだと思う。地方と都会の格差の甚だしさは地方の人にはわからないし、都会の人もわかっていない。自分の子どもの幸せだけ願っていても、自分の子どもは幸せになれないのだから。

先日不登校の高校生とやりとりをした際に、彼女が中学生の時に学校に行けなかった理由が自分でもわからなかった、という話を聞いた。これも私が「なんのために学校で学ぶのか?」を考えるきっかけになった。私は学校が好きだったかと言えば、小学校の高学年から好きではなかった。行くのが当たり前、と思って行っていた。学校に行きたくない日は自宅の神棚と仏壇に手を合わせて「明日熱が出ますように」と祈った。熱が出たのは1回だけで、後は仕方なく学校に行っていた気がする。しかし、どうしても行きたくない、と思うほどには学校は嫌ではなかったのかもしれない。もう覚えていない、というのが正しいかな。

なんのために学校はあるのか?

そんなことを子どもたちと話しあってみたいな。教員の方々とも話してみたいな。馬鹿なことを言っている大人かもしれないが、何歳になっても自分の思っていることを口に出せる人間でいたいと思った。



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