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なぜ都市に「ウォーカブルな」街が必要なのか、ゼロから考えてみた

昨晩は「庭プロジェクト」の打ち合わせで、田中浩也さん門脇耕三さんたちとディスカッションをしていたのだがそこで話題に登ったのが「ウォーカブルな街」の問題だ。モータリゼーションの結果として、アメリカをはじめとする国で都市から歩行者が排除され、街の「にぎわい」が失われたことが問題視され、その反動で今日の都市論においては「ウォーカブルな」中心街を維持/復活させることが多く議論されている。

https://slowinternet.jp/article-category/niwaproject/

さて、僕はどう考えるかというと基本的にはこの考えに賛同している。個人的に散歩が好きで、ある程度のまとまった距離を歩くのは苦ではない(J-waveで番組を持っていたときは、自宅の高田馬場から六本木の放送局まで歩いて移動していた)し、職住近接(つまり「共働き」前提)の都市を考えるなら、やはりその舞台となるエリアはウォーカブルなものを基本にするしかないだろうい。そしてその場合は並行して自転車などのモビリティを利用しやすい環境が求められるだろう。

ここで重要なのは「ウォーカブル」なのはあくまで「手段」であり、「目的」ではないということだ。自動車が侵入できる道があることではじめてそこにアクセスが可能になる人たち(たとえば足に障害を負った人たち)のことを当然だけれど僕たちは忘れるべきではないし、目的はあくまで僕らがそこで「にぎわい」と呼んでいる(呼んでいた)ものであることからブレてはいけない。

つまり、「ウォーカブルな」都市にすることで僕たちは「何を」得るべきかということを、もっと具体化しておく必要があると思うのだ。

結論から述べれば、それは複数の共同体が「出会う」場所、共同体と共同体の「間」の場所を確保することだと思う。人間が、自分とは違うセカイに生きている人間がいることを、言語外の領域で「体感」できる場所があること。これが「都市」の果たすべき機能で、そのために「ウォーカブルな」エリアがあったほうがいい。これがないと文化的にも、政治的にも社会は停滞してしまう。それが僕の結論だ。

では、具体的に説明しよう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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