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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』についての補足(歴史との対峙について)


先日発表した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見てきた直後の雑感が予想外にたくさん読まれていていて、少し驚いてる。今回は、僕が以前書いた『母性のディストピア』で展開した戦後アニメーションの精神史に照らし合わせて、前回の議論を補足したい。

前回に僕は「旧エヴァ」についてこう書いた。

〈そもそも「旧エヴァ」は「宇宙戦艦ヤマト」的な架空年代記(の中での父権的な自己実現の仮構)と「うる星やつら」的な終わりなき日常(の中での幼児的全能感の保全)との共犯関係ーー主人公は「うる星やつら」的な日常を守るために「宇宙戦艦ヤマト」的な戦地の非日常に赴き、その一方で「宇宙戦艦ヤマト」的な活躍を背景に「うる星やつら」的な日常で特権的な位置を与えられるーーを作品の中に織り込み、戦後のアニメーションというか、オタク文化が育んできた虚構を用いたヒーリングという回路の総決算を試みたものだと位置づけることができる。〉

歴史を捏造する/したつもりになる(宇宙戦艦ヤマト)か、歴史を忘却する/したふりをする(うる星やつら)か。この二つの立場は、一見対立するようでいて、実は共犯関係にある。架空年代記の中で歴史の捏造(ごっこ)が可能なのはそれは現実の歴史を忘却したいという欲望が社会の中で暗黙に共有されているからであり、そして歴史の忘却(したふり)が可能なのは歴史は作られたものに過ぎないというニヒリズムがやはり共有されているからだ。

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