見出し画像

「消費」ではない回路を用いて「交通空間」をどう実装するか、を真剣に考えてみた話

さて、今日は少し変わって「都市」のことを考えてみたい。僕は去年から「庭プロジェクト」という都市開発の研究会を主催している。その問題意識の根底にあるのは、下記の記事にあるようにSNSプラットフォームの出現によって、「都市」が担っていた機能が衰微しているように感じていることだ。

要するに、SNSプラットフォームは人間は他の人間からの承認を、インスタントに獲得することを可能にする。実際に僕の悪口を書けば、僕を潰したくて仕方がない人たちやその取り巻きからすぐに「いいね」や「リポスト」を貰えるだろうし、そういったニッチなニーズに応えなくても、たとえば立憲民主党の悪口を書いて維新やネトウヨ近辺から同じように「承認」を稼ぐことはバカでもできる。ここまで承認の交換コストが下がると、他の快楽の追求を人間は相対的にしなくなる。

たとえば、僕の好きなアニメの世界でも、今日においては「みんな」が好きな作品を「みんな」と同じ視点と語彙で褒めて「みんな同じ」であることを確認するという「愛し方」が主流で、批評(その表現から自分の内面に生まれた変化を言語にする、あるいはそのメカニズムを言葉にする)といった行為は、むしろそうった「祭り」の気分に水を差す者として嫌われる。あるいは大して考える力も知識もないのに自己に知的なイメージを持ってしまった人のコンプレックスを刺激するという理由で排撃されてしまう。

僕としては、「みんな」と同じものを褒めて安心する、みたいなのが好きな人の気持ちは分からない……というか、そういう快楽を求めたいならわざわざ虚構性の高い表現を用いる意味はないと思うのだけど、本題はそこではない。

要するに、こうした共同性の確認からは何も新しいものは生まれない、と僕は思うのだ。歴史的に考えて、というかこれは一般論だが文化の発展には異質なものとの交流が不可欠で、そのためには共同体の中で、つまり同じ文脈を共有しているだけではダメなのだ。だから「読書家の自分たちが好き」な人達が集まって自己啓発本を読むビジネスマンを蔑む(態度をメタ的に共有した)シンポジウムを100回開いても意味はない。この喩えで言えばむしろ本というものを内容ではなく形式から、つまりメディウムとしての本、という視点から考える人達との交流のほうが(手っ取り早く気持ちよくはなれないだろうが)実際に発展性のある議論ができるはずだ。

では、どうするか。

僕はやはり(柄谷行人的に言えば)「交通空間」が重要だと思う。

共同体は、むしろ放っておいてもできる。都市化が共同体を破壊して、人間の心を貧しくした、なんてのは単なるアジテーションのために設けられた「嘘」だ。

ここから先は

1,093字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。