いま必要なのは「である」ことでも「する」ことでも、「承認」でも「評価」でもなく第三の回路ではないかという話
一昨日に、僕の主催している研究プロジェクト(庭プロジェクト)の会合があった。これは一言でいうと「プラットフォームに負けない実空間づくり」のための研究会、ということになると思う。なぜ「庭」が比喩として充てられているのかは、研究会のレポートや僕の「群像」誌の連載『庭の話』を読んで欲しい。
そして今日僕が考えてみたいのは、その研究会でメンバーと交わした議論のことだ。それは要するに今の社会に足りないアイデンティティの持ち方、のような話だ。結論から述べてしまえば、そこで僕たちは「〜である」という状態を「承認」されることでもなければ、「〜する」という行為を「評価」されることもでない第三のあり方が大事なのではないかということを議論した。だから今日は、その議論の概略とそれから僕がさらに考えたことを書いてみたい。
日本思想史に興味のある人は、この議論の背景に丸山真男の『「である」ことと「する」こと』というエッセイがあることはすぐにピンときたと思う。これは「ものすごく単純化すれば」丸山が日本社会の前近代性、封建制の特徴をそのアイデンティティの持ち方に求めたものだ。戦後に至っても、日本人のマジョリティは「〜である」という形を取る。福田村の住人だとか、◯◯友会の会員だとか、ぼんやりと存在する「自分たちの側」の味方だとか、そういったかたちを取る。しかし丸山の理解ではこれは「近代的」ではない。近代の市民社会は「〜する」といった行為を「評価」されることで、社会の一員であることが確認される。近年の労働論に照らし合わせれば、前者(〜である)はメンバーシップ型で、後者(〜する)はジョブ型ということになるだろう。
実際に思い当たるフシのある人も多いだろう。JTC(日本の伝統的企業)に今もはびこる「飲みニケーション」では、頻繁に共通の敵の悪口を言って結束を固める。批評や思想の世界でもいまだに取り巻きがボスの敵の悪口を言ってご機嫌を取る醜悪な文化が生き残っているし、SNSで普段「文化的」で「リベラル」な主張をしている人たちも政治的、文化的に自分たちの仲間「ではない」相手に対してはアンフェアな切り取りも、容姿や出自に対する中傷もやり放題……なんて光景は珍しくない。これらは総じて「〜である」というメンバーシップに対する「承認」を確認する儀式だ。
では、この前近代性を「〜する」というタイプのアイデンティティに切り替えて近代化すればいいのかというと、そのような単純な話ではない。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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