これからの「京都」の話をしよう
先日、菊池昌枝さんと岸本千佳さんと3人で、京都のこれからについて語り合った。なぜ京都、と思う人も多いと思うけれど、僕は実は若いころ7年ほど京都に住んでいたことがあるのだ。僕は父親が転勤族だったので、5年以上住んでいる街はこの仕事をするようになって住むようになった東京を除けば京都だけだ。僕にとっては人生ではじめて愛着が持てた街で、とても思い入れが深い。そして大学の授業を持っている関係で、この6年間春学期(4月-7月)は毎年隔週で東京から出張している。
青森県出身の人間が、それもたった7年住んだだけで京都について何か語るというと、生粋の京都人のみなさんに「青森県出身の評論家さんは京にお詳しいどすなあ」といった感じで嫌味を言われてしまうかもしれない。けれど、外部の人間だからこそ見えてくるものもあると僕は思っている。
もちろん絵葉書と同じ景色を背景にセルフィーを取って、名所旧跡でウィキペディアを引いて満足して帰る観光客は実のところ何も受け取っていないという批判はよく分かる。ああいう旅は手の込んだ読書以上のものではないと僕も思う。ほんとうに大事なのは自分の身体を普段とは違う環境に置いて寝泊まりすることで、世界の見え方や感じ方が変わることだ。旅をすることで、僕たちは普段とは違う土地の、違う街で食事をして、寝起きして、そしてものを考える。普段とは違う環境で日常を過ごす。そうすることで、普段は気がつかなかったことに気づく。世界の見え方が変わる。それが旅の醍醐味だ。
そう思って以前僕のメールマガジンで「観光しない京都」というエッセイを何度か書いたことがある。他にも「住むように旅する」系の雑誌やムックは最近多いのだけれど、結局どの本も町家カフェとホステルを紹介している。普通につくるとそうなるのは、僕も本をつくる側の人間なのでよく分かる。でも、京都のような古い街に暮らしたときの時間の流れがちょっとゆっくりと流れる感じをどう旅行者に伝えるかはもっと具体的に考えないといけない。お店や寺社仏閣巡りではなくて、朝起きて散歩するとか、午後はどうやってすごすとか、モノではなくコトの次元で考えたほうがいい。
そんな中、いちばん僕の考える京都の魅力をしっかり伝えていたのは、実は日本の本ではない。「左京区男子休日」という台湾で出版された本だ。日本では「台湾男子がこっそり教える! 秘密の京都スポットガイド」というタイトルで出版されている(もちろん、僕が読んだのはこの翻訳版の方だ)。これはその名の通り、台湾の若い男子二人組が左京区に長期滞在して、毎日ダラダラ過ごす日常を記録したものだ。古本屋を覗いたり、ラーメンを食べたり、鴨川の土手でサボったりしているだけだ。こうした「生活」する京都の魅力が、外国人の視点だからこそくっきり浮かび上がっている。どのページも彼らが滞在中に撮った写真でいっぱいなのだけど、いわゆる「決めカット」がひとつもない。載ってる文章も、どこに出かけたとか何を買って食べたとか、ただの行動記録以上のものではない。ある時期京都で暮らした何ヶ月かの、生活者の視線がそのまま凝縮されている。そして僕はいままで手にしたあらゆる京都についての本の中で、この台湾の青年たちの書いた本がいちばんこの街の魅力を正確に、そして強い力で伝えているように思えた。
重要なのは「何者でもない人々」の視点なのだと思う。住民でも観光客でもない、異邦人の視点なのだと思う。転勤族や移住者の視点なのだと思う。その土地で生まれ育った人には当たり前のこと過ぎて気が付かないことを、観光という非日常では表面的にしか触れられないその街と土地の本質を、異邦人は「暮らす」ことによって見つけ出すことができるのだ。
この本で台湾の青年たちが暮らした左京区のちょっと観光地から外れたエリアは、大学生や貧乏旅行者の長期滞在とか、どうやって食べているのかよくわからない自称クリエイターの人が多いエリアだ。あの日僕と議論した不動産プランナーの岸本千佳さんの著書に『もし京都が東京だったらマップ』がある。これは、京都のさまざまなエリアを東京のエリアに例えた本なのだけれど、そこでこのエリアは阿佐ヶ谷や荻窪、高円寺と言った中央沿線の出版やサブカルチャー関係のクリエイターが多く住むエリアに例えられている。たしかに似ている。でも少し違う。歴史の重みの違いはもちろん、僕の感覚からすると京都の出町柳や元田中、一乗寺と言った叡山電鉄沿線のエリアは中央沿線のちょっと拗ねた自意識過剰さがなく、もっと素直な雰囲気の街だ。そして中央線沿線と違って、もう少し若くて、そして何より多様だ。世をすねた文化系の中年層ではなくて、何者でもない、何をやっているかわからない(学生を含む)若者たちの多い街になっていると思う。
中心部の観光地はいま、内外の観光客たちにすっかり荒らされていると言わざるを得ない状態にあると思うけれど、観光客たちの考える「京都」とは少し外れたところにこそ、京都ならではの面白さを味わうことのできるエリアがあるのだ。
ちなみに、僕が以前住んでいたのはその反対側、鴨川を擁する左京区に対し桂川を擁する右京区だ。当時(20年近く前のことだ)の僕は左京区の、特に鴨川エリアはずっと観光地化されてしゃらくさいと思っていた。それに対して右京区は圧倒的に住宅地だ。もちろん、嵐山もある。映画村もある。広隆寺もあるし、仁和寺も龍安寺も車折神社も右京区だ。正確には西京区だけれど、桂離宮も近い。なのだけれど、右京区は基本的に住宅地だ。建売住宅がひしめき、五条西小路のイオンが区民生活の中心だ。でも、それがよいのだと僕はずっと思っていた。なんでもない住宅地の中に、応仁の乱の矢傷の残る寺がある。それがいいじゃないか、と思っていた。僕は大学に通うときに、いつも妙心寺の境内を自転車で通過し、お勤めさんのお坊さんにガラでもなくおはようございますと挨拶するのが日課だった。右京区は観光客にはあまり魅力のない街かもしれないが、日常の中に歴史が埋め込まれている。そこが魅力だとずっと思っていた。
しかしあれから二十年が経って、いまは完全敗北を認めている。全国の右京区派、桂川派に裏切り者として指弾される覚悟で書くが、今日においてむしろ嵐山などの観光地(非日常)と周辺の住宅地(日常)が断絶しているのが右京区桂川エリアで、左京区の特に鴨川の北東部は住民の日常と観光スポットがすっかり一体化している。観光客が押し寄せるスポットのすぐ近くに、カフェなのか飲み屋なのか雑貨屋なのかよく分からない店があったりする。そしてそのお店のカウンターでは外国人観光客と近所の大学のお兄ちゃんが普通に並んでいる。この光景は右京区にはあまりないと思う。この光景を生んでいるのは、前述した「何者でもない人々」の全住民に対する含有率のようなものだと思う。
僕には左京区の一部に多い彼ら「異邦人」や「何者でもない人々」のもつ、曖昧な存在感が古い街に息づく歴史の重みと今を生きる住民の日常とを無理なく接続しているように思えるのだ。彼らのような半分だけ世間から遊離した存在が当たり前のようにそこを歩いていることが、歴史の重みを中和して日常の中の風景に溶け込ませているように思えるのだ。
意外に思うかもしれないが、京都市でもっとも盛んな産業は製造業だ。観光産業でも、文化産業でもない。観光客たちが「京都」だと考えてるのはそのごく一部だ。1000年前から京都の中心だったごく一部のエリアを除けば、京都は大阪を中心とした京阪神の製造業地帯の一角を占めている都市なのだ。オムロンがあり、島津製作所があり、ワコールがあり、任天堂がある。これらの製造業はすべて観光客の考える「京都」の外側(西部や南部)に本拠地を構えている。そこには多くの「製造業の街」がそうであるように、昭和後期から平成前期のライフスタイルがそのまま残っている。平安時代や室町時代のものが残っているという意味の「古さ」ではなく、数十年前の「流行」が更新されずに残っている。ツーバイフォーの建売住宅から自家用車で週末イオンに行くのが一番の楽しみといった三十年前のライフスタイルがそのまま残っているのだ。元住民として僕はこの中途半端な古さは、ちょっともったいないことだなと思っている。観光客に占領された中心部のように、他のエリアもなってほしいとは思わない。けれど、左京区の一部に見られるような、「何者でもない」人たちを受け入れることで日常生活と歴史をつなぐような街に生まれ変わることができないかな、とは思うことがある。言ってみればそれは、洛中洛外の再定義だ。
たとえば前述の岸本千佳さんは、事務所のある西陣の再生に取り組んでいる。西陣は京都の中心部から少し離れた街で、こういってはなんだけれど僕が住んでいた20年近く前から、ずいぶんと寂れた街で西陣織で栄えた往年の面影はまったくなかった。そこで岸本さんは古くなった木造賃貸の物件をリノベーションし、職住一体の暮らしを体現し工房兼住居(つれづれnishijin)を作り上げた。これは古い職人たちの街である西陣の精神を継承しつつ、「何者でもない人々」のあたらしい血を入れるためのプロジェクトだと言えると思う。
あるいはいま長いあいだ、歴史的な経緯があって、あまり人気のあるエリアではなかった京都駅周辺の再開発が話題を集めている。西側は梅小路の公園が再整備されて賑やかになり、東側には今度市立美大が移転してくる。こうした再開発が、「何者でもない人」を呼び込み、日常生活と歴史とをつなぐ蝶番のような役割を果たせばいい。あまり知られていないことだけれど、京都市の人口の約1割は学生だ。京都の古い街に今も残るコミュニティの多くは、たしかに排他的な側面がある。しかしその一方でこの京都という街は、大学生を始めとしてある一定の時間そこに暮らして、そして去っていく「何者でもない人」を受け入れてきた側面があるのだ。
そしてもうひとつ。あの日僕が提案したことがある。それは京都というあの街を、京阪神のセットで考えるのではなく山城から丹波、そして丹後地方とセットで考えるという発想に切り替えることだ。そうすることで、僕らは戦後日本の太平洋ベルトの中継点としての京阪神という思考から離れて、京都という街の歴史と自然に向き合うことができると思うのだ。僕はあまり観光旅行は好きじゃない。でも、美山や伊根といった古い街に足を伸ばしてみるとまた、京都という街の見え方も変わってくるように思うのだ。たしかに交通の便はあまり良くない。けれども京都の町中に2泊くらいしたら、レンタカーなどを駆使して1泊は丹波、丹後エリアか山城エリアに足を伸ばすという旅があってもいいと思う。京都の歴史と文化は常に、丹波、丹後の、そして山城の自然に支えられていたものだからだ。かくいう僕も実はもう4年ほど、毎年夏には丹後地方を一人でぶらつくことにしている。そこで出会ったもの、考えたことについて書き始めると、またものすごく長くなるので今日は一旦ここで筆を置く。京都について書きはじめると、僕のような余所者でも(いや、余所者だからこそ)とめどなく書きたいことが出てくる。この深さこそが、京都の魅力なのだ。
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