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村上春樹と「壁抜け」の問題

前回の更新では、村上春樹が求めているのは「直子」なのか、「鼠」なのかという問題を論じた。

そして、そのどちらでもないのではないか、とこの問いを引き受けながらひっくり返したのが、濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』での村上春樹解釈だったのではないか、ということを書いたのだけど、今回はそもそもなぜ村上春樹が「直子」の回復を、あるいは喪失を抱えた男性主人公をエンパワーメントする「緑」的な女性を要求するのか、ということを考えてみたい。

90年代なかばから後半に村上春樹が掲げていた「デタッチメントからコミットメントへ」。これは全共闘から連合赤軍まで、60年代末から70年代初頭までの「政治の季節」の盛り上がりとエスカレーション、そして破綻の反省が出発点になっている。マルクス主義をはじめとするイデオロギーに埋没すると、人間は人間性を失ってしまう。この「革命」の悲惨な末路は、村上たち同世代の左翼的な若者の多くを「転向」させた。そしって村上はそれを「デタッチメント」という言葉で表現した。イデオロギーから距離を取り、自分を保つこと。そして革命の夢を支えたイデオロギーの代わりに台頭し、80年代の日本を席巻した消費社会については、ある程度受け入れながらその狂騒からは距離を置くこと。これがこの時期の村上春樹の小説を支えていた「デタッチメント」の倫理だ。

しかし、90年代半ばから村上春樹は再転向する。かつてとは別の形でもう一度社会に「コミットメント」する方法を、イデオロギーに依らずに正義を実現する方法を模索し始める。その初期のアイデアが『ねじまき鳥クロニクル』に登場する「壁抜け」だ。これは、時空間を超えて人間が直接歴史にアクセスする、というものだ。巫女的な女性の力によってエンパワーメントされ、古い井戸に潜ると主人公の男性の意識はノモンハン事件当時の満州にいた旧関東軍兵の意識に接続される。そこで「皮剥ぎボリス」の異名を持つ、絶対的な悪の存在を認識する。たとえ、ボリスがソ連軍の所属であろうが、関東軍の所属であろうが、馬賊であろうが、彼の残虐な行為は正当化出来ない。むしろ主人公は90年代の日本から、意識だけワープしているために、当時の政治的な文脈を一切無視して純粋に善悪を判断することができる。そしてこれが、悪と戦うコミットメントの根拠になる。この「壁抜け」的なアイデアは、村上春樹の新しいコミットメントの中核をなし、その後何度も反復されていく。そして、僕はこの「壁抜け」こそが村上春樹が乗り上げた暗礁の原因ではないかと考えている(ここ10年近く、村上が無内容な自己模倣と、批判に対する自己弁護のような貧しい作品を積み重ねていることは明白だろう)。

そしてこの「壁抜け」の問題は二つある。一つは「壁抜け」には常に性搾取的な構造を用いた男性性の強化が要求されること。もう一つはそれが果たして今日のフェイクニュースと陰謀論と、歴史終生主義が跋扈するこの世界に有効なのかという疑問だ。もっと言ってしまえば、いまインターネットで起きている「歴史」の歪曲は情報技術に支援されたこの「壁抜け」のバリエーションに過ぎないのではないかという疑問だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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