見出し画像

『怪物』と「幸福」の問題

『怪物』を観てきた。結論から述べると、僕はこの作品を傑作だと考えている。どうやら性的マイノリティの描き方について賛否が別れているらしいが、ここでは少し別の側面からこの作品について考えてみたい。(ある視点から考えたダメな作品が別の視点から考えるとよい作品だと考えられる、程度の思考に耐えられない人は社会や文化について、特に過激な言葉を用いて否定的なことを述べる前に少し「ものを考える」ということそのものについて学んで欲しいと思う。)

 映画の内容をざっと紹介しよう。是枝裕和監督、坂元裕二脚本によるこの映画『怪物』の舞台は日本の地方都市(長野県諏訪地方)にある小学校だ。主人公のひとりであるシングルマザー(安藤サクラ)はある日、一人息子のいくつかの奇異な行動から、担任教師(瑛太)による「いじめ」を疑い始める。彼女は小学校の事なかれ主義と隠蔽体質に憤りながらも、粘り強く抗議を続け、学校を謝罪に追い込む。しかし、息子の様子は変わることがない。映画は彼の身に何があったのかを、次に担任教祖のそして最終的には彼女の息子の視点から物語を再提示し、立体的に描き出す。

 坂元裕二は一時期社会派のテレビドラマを手がけることを得意とした作家である、と紹介されることが多かったように思う。しかしこれは少し、不正確な評価ではないかと僕は思っている。坂元にとって、少年犯罪やジェンダーギャップとは自分が描きたい人間のある側面を効果的に引き出すための道具に過ぎない。このことは坂元が、社会問題そのものを描くことで得られるダイナミズムを(たとえば野木亜紀子の近作のように)手にできないことを意味する一方で、彼に大きな自由を与えている。
 
 本作にも坂元のこうした社会への態度が大きく反映されている。たとえば主人公のひとりであるシングルマザー(安藤サクラ)が直面する21世紀の先進国とは思えない片親家庭に対する偏見、その彼女自身が陥っている性的マイノリティへの偏見やステレオタイプな家族観、「男らしさ」への無邪気な(だからこそ質が悪い)信頼などの取扱いがそうだ。ここには確実にメッセージが存在する。いま列挙した暴力に対し、この映画は確実に異を唱えている。しかし、それはこの映画がもっとも描きたかったもの、提示される中心的な価値そのものにはない。

 では、それは何か。

ここから先は

1,568字

¥ 400

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。