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『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』と「冒険」の問題

 話題の今年の大長編ドラえもん『のび太と地球交響楽』を観てきた。映画自体には過不足なくよくまとまっている、という感想を抱いた。音楽の楽しさをのび太が学ぶというテーマがあり、それを「大長編ドラえもん」らしさでまとめ上げている。

 藤子・F・不二雄原作による『大長編ドラえもん』の原作には、のび太の成長というテーマは相対的に前面に出ることはなく、あくまで夏休みの「冒険」そのものに主眼が置かれていたが、原作者の死から30年が経とうとしている今日の『大長編ドラえもん』には、作品を受容する社会の側からのニーズとしても、そして原作者亡き後にシリーズを四半世紀以上続けてきた送りてのニーズとしてもこうした「テーマ」は必要なのだろう。

 そして『大長編ドラえもん』「らしさ」とは、この児童たちの夏休みの「楽しみ」が思わぬ形で大冒険に、そして地球や人類の危機にスケールアップしていくダイナミズムであり、ゲストギャラクターとの友情であり、そして毎回スポットの当てられたキャラクター(『大魔境』で言えばジャイアン、『宇宙小戦争』で言えばスネ夫)の小さな成長物語である。

 前者(テーマ)と後者(「らしさ」)の両立を高いレベルで成し遂げた作品として、本作は評価されていくだろうし、その事自体に僕も異論はない。しかしその上で、僕はこの映画を観て『ドラえもん』のような作品の置かれた環境の変化について考え込まざるを得なかった。
 そう、これから書くのは作品の評価ではなく、この作品を出発点にした思考の展開だ。結論から述べると、僕はこの映画を見て「冒険」や「SF」というものの負わされている社会的な役割が大きく変化してしまったことを、改めて痛感してしまった。
 端的に言えばもはやドラえもんは「あんなこといいな、できたらいいな」という「夢」を担うことができなくなってしまったのではないか、というのが僕の結論なのだ。

 では、どういうことか書いていこう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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