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『化け猫あんずちゃん』と「モラトリアム」の問題

 最近観たものの中で、僕がとりわけ感心したのは『化け猫あんずちゃん』というアニメ映画だ。

 これはいましろしんじの漫画を原作に、山下敦弘と久野遥子が共同監督を努めたアニメ映画だ。実写映画の監督である山下と、アニメーションを中心に活動する久野がコンビを組んでいるのは、この映画が「ロトスコープ」という実写映像で撮影した俳優の動きを絵にトレースする手法を採用しているからだ。しかも本作では、山下が実質的に1本実写映画を撮影し(あんずちゃんは森山未來が化け猫のコスプレをして演じている)、それを元に久野がアニメーションをつくるというかたちが取られている(セリフも同時録音だ)。

 山下敦弘のスタイルと久野のアニメーションの相性はよく、色彩設計や声優(俳優)陣のアプローチなど、本作の成功点は多いのだが、ここではとりわけ山下に注目して論じてみたい。

 以前僕は山下映画について、以下のように書いたことがある。

〈山下敦弘はずっと青春映画を撮ってきた監督だと僕は思っている。たとえば90年代に青春期を過ごした多くの同世代の作家たちが、何も起こらない世界に暮らす、何ものにもなれない人たちの青春を描き続けて来たと言える。
 「政治と文学」という古い言葉が体現する世界と個人との距離感の問題は若者文化から後退して久しく、そんな「政治の季節から消費社会へ」のダイナミズムでものを語れた時代も(空騒ぎして見せることに意味のあった時代も)バブルの崩壊と同時に遠い過去のことになってしまった。その結果、90年代に多感なお年頃を生きた僕たちに残されたのは、そんな何もない世界(「終わりなき日常」でも「平坦な戦場」でもなんでもいい)でいかに生きて行くか、だった。だから彼らの作品とその観客達が往々にして自意識過剰なのは当然の話で、個人の自意識にどう決着を付けるのか、という問題だけがどこまでも肥大していったのが90年代のサブカルチャーであり、そんな90年代「サブカル」の自意識を引きずったまま中年になってしまった団塊ジュニア達の憂鬱の種はここにあるからだ。
 そんな時代を背景に山下という作家が撮り続けていたのは、自意識の問題だけが肥大せざるを得ない世界(何もない、何も起こらない世界)を受け止めながらも、自分の自意識語りでその欠落をすら埋められない、決して自分自身は主人公になり得ないという感覚だったと言える。もはや自分の人生と自意識しか語るべきことはない世界に放り出されていながらも、山下の描く世界の住人たちはその主人公としてドラマチックに自らを語る権利を与えられないのだ。山下の映画に登場する人々は、「カッコ悪い自分/何ものにもなれない自分の自意識を語る」ことでその無様さを引き受けている自分という最後のナルシシズムの砦すらも奪われている。
 たとえば「リアリズムの宿」(03)の二人組の佇まいそのものがそうだし、「どんてん生活」(99)のラストシーンで示される滑稽で不格好な「気まずい現実」でさえも他人事としてしかコミットできないという諦念がそうだ。「その男・狂棒に突き」(03/短編)の他人の滑稽さを通してしか世界を眺めることのできない寂しさの背景にあるのも、こうした諦念だろう。
 矮小で滑稽なものにすぎない個人の自意識の問題に開き直り、それを語り続けることでしか当事者になることができない(「平坦な戦場」を生き延びることができない)のが90年代のサブカルチャーに仮託された若者の感覚だとするのならば、そこから半歩ずれた山下敦弘の映画が切り取っていたのは、その矮小さと滑稽の当事者にすらなれないという絶望未満の諦念だったのだと僕は思う。〉

 90年代という自意識の問題だけが肥大する時代を引き受ける姿勢と、にもかかわらず決して自己が物語の主役にはなれないという諦念ーー僕は作家としての山下敦弘の本質をこのように評した。

〈だから「松ヶ根乱射事件」(06/同作はある時期までの山下映画の集大成と言える)の結末で主人公が「乱射」するのは、彼が撃つべき対象を見つけられないからだ。撃つべき対象(たとえば大文字の「政治」)を失い、自分自身しか撃てなくなった世界が90年代だとするのなら、山下が描いていたのは自分自身すら撃てない世界だ。だから松ヶ根乱射事件の主人公・光太郎は銃を「乱射」するしかなかったのだ。そう、「乱射」とはターゲットを持たない狙撃のことをいう。自分という物語すら信じられない光太郎は撃つべき対象をどこにも(自分の内面にすらも)見つけられず、「乱射」するしかなかったのだ。
 対象を失った結果、自分を撃つしかなくなり、そして自分すらも撃てなくなったのが現代ならばそのルーツはどこにあるのか? 山下が「マイ・バック・ページ」(11)で学生反乱の時代にそのルーツを求めたのは必然だったと言える。同作は単純に述べれば撃つべき対象(大文字の「政治」性)を喪失していく男たちの顔を追いかけた映画だ。同作は撃つべきものの存在が社会からフェードアウトしていった時代を舞台に、妻夫木聡演じる主人公の沢田の挫折を描いている。沢田は、新左翼の一派・梅山の考える「革命」に辛うじて撃つべきものを見出すが、物語が進行するにつれ、実はその梅山こそが「撃つべきもの」の存在し得ない時代に過剰適応した存在であることが明らかになる。〉

 この文章は『モラトリアムたま子』の公開に寄せて書かれたものだ。
 そしてここで僕は同作を、「少女」モチーフの変遷から分析している。これまでの山下作品における「少女」は、ナイーブな男性主人公にとっての救済のアイコンとして登場することが多かった。しかしもはや少女とは言えない同時の前田敦子をヒロインに据えたこの『モラトリアムたま子』は、むしろこれまでの山下作品における男性主人公たちのように、「何もなさ」に直面している。しかし男性たちとは異なり、たま子はそのことに傷つくこともなければ、何かを失ってしまったと呪うこともない。

 それまでの山下作品では「少女」性にこの「何もなさ」を祝福する(「何もなさ」が自由の象徴として祝福される『リンダリンダリンダ』)役割が与えられることが多かった。彼女たちはこの「何もなさ」をむしろ自由の象徴として受け止め、肯定する。その肯定感が男性主人公たち、もしくは映画の描く世界そのものの救済として作用し、ポストモダンの乾いた生をやりすごす……これがある時期までの山下作品で反復されてきた構図だ。しかしこのように男性主人公たちの生皮の下のナイーブさを隠蔽する、といったかつての山下作品の構図は、本作で変化している。

 端的に述べれば「たま子」においてはその「何もなさ」には特別な意味(男性から見た失望/少女から見た希望)は与えられなくなり、単なる「モラトリアム」として描かれる。同作ではたま子のモラトリアムの「終わり」がアンチクライマックス的に、淡々と描かれるのだ。
 その「何もなさ」に「モラトリアム」という名前が与えられたこと、「モラトリアム」に過ぎないものとして描かれてしまったこと。その意味において同作は山下という作家のターニング・ポイントだったのだ。

 では、この『化け猫あんずちゃん』はどうか。
 結論から述べればもはやそれは「モラトリアム」ですらない。
 同作でかつて山下作品(『苦役列車』)の青年主人公を演じた森山未來が演じるのは「化け猫」で、歳を取らない。そして彼の身体はアニメーションにより描き直される。つまり彼がすごす「何もなさ」はもはや「モラトリアム」ですらないのだ。この映画で描かれた「何もない」日常が永遠に続くこと……これがあんずちゃんの終着点なのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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