『化け猫あんずちゃん』と「モラトリアム」の問題
最近観たものの中で、僕がとりわけ感心したのは『化け猫あんずちゃん』というアニメ映画だ。
これはいましろしんじの漫画を原作に、山下敦弘と久野遥子が共同監督を努めたアニメ映画だ。実写映画の監督である山下と、アニメーションを中心に活動する久野がコンビを組んでいるのは、この映画が「ロトスコープ」という実写映像で撮影した俳優の動きを絵にトレースする手法を採用しているからだ。しかも本作では、山下が実質的に1本実写映画を撮影し(あんずちゃんは森山未來が化け猫のコスプレをして演じている)、それを元に久野がアニメーションをつくるというかたちが取られている(セリフも同時録音だ)。
山下敦弘のスタイルと久野のアニメーションの相性はよく、色彩設計や声優(俳優)陣のアプローチなど、本作の成功点は多いのだが、ここではとりわけ山下に注目して論じてみたい。
以前僕は山下映画について、以下のように書いたことがある。
90年代という自意識の問題だけが肥大する時代を引き受ける姿勢と、にもかかわらず決して自己が物語の主役にはなれないという諦念ーー僕は作家としての山下敦弘の本質をこのように評した。
この文章は『モラトリアムたま子』の公開に寄せて書かれたものだ。
そしてここで僕は同作を、「少女」モチーフの変遷から分析している。これまでの山下作品における「少女」は、ナイーブな男性主人公にとっての救済のアイコンとして登場することが多かった。しかしもはや少女とは言えない同時の前田敦子をヒロインに据えたこの『モラトリアムたま子』は、むしろこれまでの山下作品における男性主人公たちのように、「何もなさ」に直面している。しかし男性たちとは異なり、たま子はそのことに傷つくこともなければ、何かを失ってしまったと呪うこともない。
それまでの山下作品では「少女」性にこの「何もなさ」を祝福する(「何もなさ」が自由の象徴として祝福される『リンダリンダリンダ』)役割が与えられることが多かった。彼女たちはこの「何もなさ」をむしろ自由の象徴として受け止め、肯定する。その肯定感が男性主人公たち、もしくは映画の描く世界そのものの救済として作用し、ポストモダンの乾いた生をやりすごす……これがある時期までの山下作品で反復されてきた構図だ。しかしこのように男性主人公たちの生皮の下のナイーブさを隠蔽する、といったかつての山下作品の構図は、本作で変化している。
端的に述べれば「たま子」においてはその「何もなさ」には特別な意味(男性から見た失望/少女から見た希望)は与えられなくなり、単なる「モラトリアム」として描かれる。同作ではたま子のモラトリアムの「終わり」がアンチクライマックス的に、淡々と描かれるのだ。
その「何もなさ」に「モラトリアム」という名前が与えられたこと、「モラトリアム」に過ぎないものとして描かれてしまったこと。その意味において同作は山下という作家のターニング・ポイントだったのだ。
では、この『化け猫あんずちゃん』はどうか。
結論から述べればもはやそれは「モラトリアム」ですらない。
同作でかつて山下作品(『苦役列車』)の青年主人公を演じた森山未來が演じるのは「化け猫」で、歳を取らない。そして彼の身体はアニメーションにより描き直される。つまり彼がすごす「何もなさ」はもはや「モラトリアム」ですらないのだ。この映画で描かれた「何もない」日常が永遠に続くこと……これがあんずちゃんの終着点なのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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