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11年目の気仙沼を、走る

3月11日に合わせて、気仙沼に行ってきた。

立命館大学教養教育センターが三菱みらい育成財団の助成を受けて開始した学生提案型ゼミ「未来共創リベラルアーツ・ゼミ」の主催するトークセッションに呼んでもらったのだ。ゼミを担当する山口洋典教授と、気仙沼でカフェ「アンカーコーヒー」を経営するやっちさんこと小野寺靖忠さんの3人で、改めてあの震災とか、復興とか、地方創生とか、そういったことについて話してきた。

僕が呼ばれたきっかけは、僕の編集する雑誌「モノノメ」の創刊号に僕自身が寄せた記事(「10年目の東北道を、走る」で)でやっちさんに取材したことだ。その縁で、やっちさんと山口さんが進めていた11年目の3月11日に合わせたイベントのゲストに、僕が指名されたという事情だ。

この日に僕たちは、色々なことを話した。(当日の録画は、主催者と参加者の許可を得てPLANETSCLUBの中で公開しているので、メンバーはそちらを見てほしい。)

そしてトークセッションの前後も、やっちさんは気仙沼とその周辺を改めて案内してくれた。震災の記録を残すリアス・アーク美術館にも連れて行ってくれたし、出港前日のマグロ漁船の中も見せてもらった。夜は、気仙沼で上がったメカジキを食べて、そして翌日は平成の大合併で気仙沼市に編入された唐桑にも連れて行ってくれた。

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僕は、人や組織に対する付き合いかたの基準を明確に持っていて、うち一つが災害にせよ、疫病にせよ、戦争にせよ、日常性が切断されるような大きなことがおきたとき、それを口実に以前から敵対していた相手を攻撃しはじめる人がいたら、そういう人の話は信用しないということだ。そしてやっちさんはこの基準に照らし合わせたとき、もっとも気持ちよく付き合える仲間の一人だった。

その日に僕はさらにやっちさんと腹を割って話した。あの日のこと、復興の手応えと後悔していること、原発のこと、その毒まんじゅう的な資金を戦略的に受け入れ復興を進めることを選んだ仲間たちのこと、そして津波が来る前から壊死しつつあった地方のこと。そのすべてをここに書くことはできないのだけど、改めて気仙沼を訪れて、彼との対話から考えたことをまとめてみようと思う。

僕とやっちさんが11年目の3月11日に話したこと。それは端的に言えば人間は土地に対してもっと謙虚であるべきだということだ。そして、人間は自分たちの過ちを認めることをしたがらない生き物だということだ。そしてそのことが、10年間の「復興」の多くを空回りさせている。だから次の10年は、まずこの誤ちを認めることからはじめないといけないということだ。

やっちさんや、その周りの気仙沼の人々の間では、この10年の間に気仙沼の津波被害が拡大した要因は「土地読み」の失敗にあるという認識が共有されている。11年前に根ごそぎ流された地区の多くは戦後のある時期に開発された市街地だった。そこは元々葦の茂る沼地のような場所で、そこを干拓したものだという。気仙沼の周辺が最初に日本史に登場するのは1300年前の坂上田村麻呂に代表される大和朝廷の蝦夷討伐で、官軍の侵攻拠点になったのがこの土地だった。リアス式海岸と大島の存在によって生まれた天然の良港ーーそれが、気仙沼なのだ。

しかし、この土地に暮らすということは同時に、津波と一緒に生きていくことを意味する。この土地は天然の良港を与えられるその一方で、地震とそれに伴う津波のリスクをも与えられているのだ。この土地の人々は長い時間の中で、住むべき場所とそうではない場所を経験的に覚えてきたはずだった。しかし、たった数十年でそれを忘れてしまったのだ。その結果として、11年前に人々の生活は津波に押し流された。

復興の試行錯誤の中で、やっちさんのお姉さんが口走った「自分たちは、海と生きるしかない」という言葉は気仙沼の復興の指針になったという。そして「海と生きる」とは、自然に対して謙虚になり、その猛威を含めて受け入れて、人は住むべきところに住むことだとやっちさんは考えた。だから「復興」はもう一度、人々が住むべき場所を選び直すことからはじめるべきだ、と。

しかし、実際の復興はそうは進まなかった。多くの土地で一度流された街を同じ場所に復興することが選ばれ、そしてその代わりに堤防を高くすることになった。しかし、今日の技術で東日本大震災時と同等の津波に耐え得る堤防を建てることは難しい。だから、この10年で新しくつくられた堤防たちは、あの日と同じレベルの津波に耐えられない。それでも統治者たちはここに堤防を立てた。いや、11年経った今でも建て続けている。そして人々の暮らしの場から、道から海は見えなくなった。大きな津波には耐えられない低い堤防をつくるために、海と人は切断されたのだ。

最初から津波のこない場所に街を、集落をつくり直せばいい、と考えるやっちさんたちの声がまったく届かなかったわけではない。高台を整地して、集落ごと引っ越す「防災集団移転」を行った地区もある。ここでは、「働く」と「住む」を分ける考え方で、被災前の市街地を維持したまま、住む場所を変えるという選択を作り出したのだ。しかしその一方で、防潮堤を立てることによって、一度撤退したはずの「住む」範囲を11年前の被災した場所にまで「進める」ことになった地区もあるという。

背景にはもともと暮らしていた場所に戻りたいという住民感情の問題が大きかったようだが、それ以上にとにかく公共事業の土木工事を通じて国のカネを土地に落とすことが優先されたという事情があったことは想像に難くない。中には、半ば自主的に高所に住民たちが移転し、海の側には誰も人間が住まなくなった場所にも堤防が作られている場所もある。いくらなんでも、ここまで堤防で覆わなくてもいいのではないか、とやっちさんたちが疑問を呈したとき、県の担当者は堤防の高さの何分の一の横幅しかない、そしてほとんど自動車も通らない眼の前の小さな道路を指してこう述べたという。「この道路を守るための堤防です。これも市民の財産なので」と。

僕はこの話を、唐桑の静かな湾たちを回りながら聞いた。この日僕らが訪れた土地の一つ、舞根では例外的に堤防を撤去して、むしろ震災の地盤沈下で出現した湿地を保全することが選ばれている。その結果として1940年代に干拓された湿地が、80年の時を経て回復しつつある。これは集落が高台への集団移転を決断したからこそ、できたことだ。

しかし気仙沼の多くの土地では、11年目の3月11日も、堤防工事が進行中だった。そこはリアス式海岸という地形がもたらした、静かな海だった。水は透き通っていて、ほとんど波がない。山と海との距離はほとんどゼロで、海の青と山の緑で視界がほとんど覆われる、ほんとうに美しい場所だった。今でも十分に美しいが、少しランドスケープデザインの手を入れて、余計な人工物を除去して森をメンテナンスすると、信じられないくらいの絶景になるだろう(もっとも、たくさん人が来てしまうとこの静かさは失われてしまうだろうが……)。しかし、実際に僕らの目の前で起こっているのは、そういったものをすべて塗りつぶす堤防工事だった。もうすぐ、この場所も無機質な堤防に覆われて海が見えなくなると思うと、やるせなかった。

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また、やっちさんたちは11年前に「復興」がはじまったとき、この地震と津波がなかったとしても中山間部などに電気、水道などのインフラを維持することは、この先数十年で難しくなるのではないか、という指摘もしたらしい。巨額の復興予算が投入されるのなら、とりあえずもとに戻すのではなく、この先五十年、百年を見越した土地開発が必要なのではないか。この点に関しては、行政も認識はしていたらしい。しかしまったく実行には移されなかった。

この国の人々が忘れてしまった「土地読み」の知恵と土地とともに生きていく謙虚さを取り戻すこと。それがほんとうの復興であるべきだったのだ。だから、次の10年はそれを少しでも取り戻すための10年にしたい、とその日僕たちは話した。僕とやっちさんが知り合ったのは、安宅和人さんが主催する研究会「風の谷を創る」でのことだ。これは現代の技術と歴史的な土地読みの知恵を融合し、あたらしい居住の形態を探すプロジェクトなのだけれど、たとえばこのような運動がこの10年を取り戻すために、少しでも資すればいいと思った。それはもちろん、気仙沼の人たちだけの問題ではなくて、自分たちの暮らす土地と、地球とどう付き合っていけばいいのかを考え直すタイミングに直面している現代人すべてに当てはまることだと思う。

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僕が子供の頃、暮らしていた東北に、九州に、北海道にはどんどん大きな道路と大きなお店ができていって、テレビや雑誌で取り上げらているものが東京と同じように手に入るようになった。このとき手にした自由と豊かさを、僕は絶対に否定できないと思う。しかしそれはそれがその土地であることを「否定する」ことで得られる自由で、それと同じくらいそれがこの土地であることを「肯定する」物語「も」必要なことは、誰もが感じていることだと思う。しかしそのために必要なのは、こうした土地読みのやり直しと、それを軽んじてきた近過去の真摯な反省なのだと僕は思う。

3月11日の朝、僕は早起きして、夜明けの時間に気仙沼の港を走った。静かな海にゆっくりと日がさしていく時間に、小さな湾を半周した。この波一つない海が、11年前に猛威を奮ったというのは信じられないことだった。しかし、この人間の想像力を超えたことが起こり得ることを理解し、知恵として継承することではじめて人は海と、その土地と一緒に生きていくことができるのだ。僕は11年目の気仙沼を走りながら、そう思った。

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