見出し画像

「コモンズの悲劇」とは似て非なる?「社会的共通資本の悲劇」について

昨日は国連大学で行われた「宇沢弘文没後10年 社会的共通資本 いままでの30年 これからの30年」に登壇してきた。「社会的共通資本」を70年代に提唱し、今日のコモンズへの再注目に伴い、再評価の機運が高まっている宇沢弘文の思想について、多角的に検討する……という大掛かりな企画だ。

僕が登壇したのは、恐れ多くも最後の、〆にあたるステージで社会的共通資本の「これから」を考えるというテーマだった。同席したのは安宅和人さん、安田洋祐さんで司会は宇沢弘文の長女に当たる占部まりさんだった。セッションはとても盛り上がり、安田さんのオストロム的な『コモンズのガバナンス』のアップデート案と、安宅さんの(僕も参加している)「風の谷を創る」構想の発想の違い、といったところから、何が市場の(抑制装置としての)「外部」として望ましいのか、という問題までしっかり議論できたとてもよいセッションだったと思う。

いずれレポートが上がると思うのだけど、僕なりにポイントを整理すると、オストロムの研究はコモンズは共同体の自治以外では持続的に管理できないというのが彼女の主張の前提で、そのため国家の適切な介入により当該の共同体が状況に応じて自らルール変更するシステムが機能するように支援することの重要性が強調される。対して安田さんはそもそものレベルで、私有と共有の曖昧な領域(擬似的なコモンズ?)を設定すると、利用者のインセンティブ設計を適切に行うことで「コモンズの悲劇」をある程度回避できる、と考える。これはもっともな話で、多くの人々が(ロマンチックな社会批判の「大きな話」をしてウットリしたいので)履き違えているがコモンズとは、そう「扱うことしかできない」ので、仕方なく「コモンズ」なのだ(牧草地とか水関係とか……)。なので、(おそらくは情報技術の発展を背景に)「所有」のほうにファジーな領域を設けることが重要だ、というのが彼の議論の骨子だったように思う。

安宅さんの『風の谷を創る』プロジェクトに、僕はもう7年も参加しているのだけどその日安宅さんがそこで、話したのはこの種の「コモンズの悲劇」(ハーディン)の問題意識と、「風の谷を創る」の問題意識との違いのようなものだ。

僕たちはこの7年、全国の中山間部や地方都市をたくさん視察してきたけれど、そこで目にしてきたものの多くが、実は共有地が利用者の「抜け駆け」により荒廃する……という問題ではなく、むしろ一部の利用者の(その多くは個人ではなくみんな大好きな古い村落共同体である)決して大規模ではない利用が全体を損なってしまう……という現象だ。たとえば「この建物がここにあるために、絶景が台無しになっている」というケースや、血気盛んな首長がドヤ顔で予算を引っ張ってきて(国のカネで)建てた「箱物」が一部のコミュニティのメンバーを潤わせるだけで、その外側や周辺の住民生活の向上にまったく寄与していない(維持費の公費負担でむしろ生活を圧迫する)どころか、景観や自然環境を大きく破壊している……というケースだ。これは「コモンズの悲劇」的な限られた資源をどう使用するのか……という問題とはちょっと違っていて、どちらかと言えば何を「コモンズ」と見なすべきか、という問題にかかわっている。

そこで僕が話したのは、社会共通資本≒コモンズと考えたとき(この前提から吟味は必要だと思うけれど)、市場の外部として「共同体」を召喚するべきではない、という話だ。

僕たちのセッションはとても重要な議論をしっかりできたと思うけれど、実は最近流行りの「コモンズ」を扱う議論では、ときどき耳を疑うような議論がまかり通っていることがある。

それは要するに、資本主義や近代社会の「外部」や「オルタナティブ」として、昔ながらの村落共同体を(都合よくその閉鎖性や差別性を隠蔽して)持ち上げるものだ。そこでどれだけ共同体の中心にいる人たちが周辺にいる人たちを構造的に虐げているかも、ムラ社会的な相互監視(と、それに基づいたイジメ)が人間の尊厳や人権を踏みにじっているかも、つまりこれらの「古き良き共同体」の多くが抱える性差別や政治的、思想的自由の実質的な制限といった諸問題をすべて都合よく「見ない」か、例外的なハートフルなエピソードをいくつか紹介して「村落共同体も意外と自由で平等です」とアピールして誤魔化してしまっている(これは「ナチスもいいことをした」論とあまり変わらない)ような「一見、いい話」が少なくないのだ。

僕がこの現象が本当に良くないと思うのは、そうやってウットリと「近代批判ゴッコ」をして村落共同体への回帰(アップデートを主張していることが多いが、実態がないことが多いので大抵はただの「回帰」)を主張する研究者やアーティストのほとんどに自分が近代都市社会の知的、文化的産業の中で「近代社会」と「資本主義」の恩恵を受けていることに、まったく自己批判がないことだ。

自分は大学や大企業などの制度に依存し、近代社会における「個人」の尊厳の尊重の利益を思いっきり受けているクセに、ビニールハウスの中からバカの一つ覚えみたいな西洋近代批判を振り回して、中には「共同体の一部になれば、個人の幸福や尊厳なんてどうだってよくなる」みたいなことを平気で言う人が本当にいたりする。ギャグかと耳を疑うと思うけど、本当にいる。

そして、東京の大学や都市の知的産業の社会的保護と収入を手放なさないまま地方の共同体に「フィールドワーク」に行き、「二拠点居住」をはじめ、移民街で「社会実験」をする。そしてそこに存在する性差別にも、アンフェアな利益分配にも、政治的な不自由にも、村八分的な暴力にも(自分は強い立場でそこに参画しているので)都合よく目をつぶり、ここに「近代社会と資本主義の外部」があるのだとウットリと述べる。

おそらく「大きな話」をしている自分に酔っていて、聴衆の多くがあまり詳しくないビジネス系の人だから誤魔化せると思っているのだろうけど(本当に舐めた話だ)、この手の人は封建的で差別的な「共同体」の隅っ子で、尊厳を踏みにじられ、性的に搾取され、ゴミのように扱われている人間を前に「個人なんて、西洋近代のでっちあげた概念にすぎない。共同体こそが人間にとって本質なので、集団に奉仕することは不幸ではない(だから気にするな)」とか言うつもりなんだろうかと思う。端的に生物的な個体という単位を考えてないし(たとえばよく言われるように身体的な「苦痛」は究極的には個体を超えて共有できない)、近代的「個人」の概念と人権という思想がどれだけたくさんの弱い立場の人たちを救ってきたか、歴史的に考えていなさすぎる。そもそものレベルで安直すぎるのだけれども、自分のロマンチックな語りに酔っているので都合よく忘れているのだろう。ぜひともこの手の言説をもて遊ぶ人は、まず自分が近代社会内の地位と財産を捨てて、10年くらい閉鎖的な村落共同体の内部の、それも尊重されない被差別的な位置で人権の認められない生活を続けた上で、その主張を他人に対して説得的なものとして展開してもらえたらと思う。

残念ながら自分は近代社会や資本主義を根源から批判しているという「大きな話」をしたがるくせにそこまで能力のない研究者やアーティストはこういうパフォーマンスに走りがちで、そしてさらに問題なのはこの種の「よくよく吟味すると実質的に無内容なデタラメ」な言説がそのハートフルな外見からとくに吟味されず、「意識の高い」「ソーシャルグッドなことに関心のある」ビジネスマンたちがその無知からコロっと騙されることが散見されることだ。悲しいことだが本当に「これは資本主義、いや近代に対する本質的な批判だ」とか「感動」しているのをたまに見かけたりする。このレベルの人は中学の社会科からやり直さないと、この手の無自覚な詐欺師みたいな連中にどんどん騙されていくだろう。これ系の議論が好きな人は、ちゃんと見極めるのが大事だと本当に思う。(このあたりの記事も参考にしてほしい)。

さて、ここから本題だが、僕が安田さん、安宅さんの話を受けて述べたのは究極的には市場の「外部」はどこに設定すべきか、ということだ。歴史的にものを考えない人は、それは「共同体」だという。しかし僕の考えでは市場の外部として有効に機能するのは「共同体」ではない。彼らがロマンチックに語る「贈与」のネットワークの実体は、単に「アンフェアな市場」でしかない。

ここから先は

1,221字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。