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コモンズと共同体をデカップリングする可能性を考える

 少しバタバタしていて、間が空いてしまったが、今日はコモンズと共同体について考えたい。宇沢弘文からオストロムまで、そして媒体やイベントでソーシャルグッドな「いい話」をして、あまりものを深く考えていないがそう見られたい企業や観客を騙して金と権威を手にするタイプの「知識人」たちまでが口を揃えて、資本主義のアップデートのためには市場の外部に「コモンズ」が必要であることを、そしてそのコモンズは「共同体」の自治により担われるべきだと主張する。

 しかし、僕はこの前半には同意するが後半には同意しない。資本主義のアップデートのためにコモンズを再評価せよ、という主張に対しては、逆に今日において反論することが難しい。イーロン・マスク統治下のX(Twitter)の混乱を一つとっても、公共的な場所が私企業のサービスであることのリスクはほぼ全人類が(その評価は別として)感じているはずであり、この状況下でコモンズが再注目されるのは不可避だろう。ただ、僕が警戒すべきだと考えているのは、前述した耳障りのいい「物語」ーー市場の外部として共同体の自治によるコモンズを、という主張は左右に共通するトレンドであるーーに思考停止した人々が、共同体の自治のリスクを軽視しているのではないか、ということだ。(下記の記事は、その問題意識から書かれている。)

 さて、オストロムの仕事が重要なのは、共同体の自治の有効性を「共同体って、なんかいいよね」という表面的なイメージに依存した思考停止「ではない」かたちで主張したところにある。
 彼女の議論は、まず共有地の否定(厳密な私有化、または国有化)はそれぞれ運用面(そもそも分割して私有化しようがないから共有地にしているものがほとんど)とコスト面(国有にすると地元住民とよそ者が両方とも罰せられない限り好き放題するので、監視コストが見合わなくなる)から現実的ではないことから出発している。要するに消去法で「共同体の自治」しかなく、その研究の重心はむしろ自治のメカニズムと、内部ルールの柔軟な変更のために国家が限定的に果たすべき役割……と言った点に置かれている。

 共同体が物語の主役級の中心人物に奉仕するシステムに陥りがちなことを、「いい話」でブランディングしたがる知識人や社会起業家や政治家は「都合よく」忘れているのだけれども、オストロムの研究は下手をすればこういったセルフブランディングのために安易な共同体回帰を叫ぶイデオローグたちに「悪用」されてしまうだろう。

 しかしその一方で、ここには別の理論的な検討の余地があるだろう。それは端的に言えば、コモンズと共同体の自治をデカップリングする可能性だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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