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「書くこと」から「読むこと」へさかのぼる

 突然だけれども、今月から「発信できる人になる」をテーマにちょっとしたスクールのようなものをはじめることにした。
 これは、端的に述べると「宇野がこれまで身につけてきた〈発信する〉ことについてのノウハウを共有する講座」だ。
 情報収集、本の読み方、企画づくり、文章のストーリー構成、ライティングとコピーワーク、物書きとしての生き方、他人の才能を活かす編集術……1年位かけてぜんぶ教える講座を考えている。本当は来年1月からはじめる予定で準備を進めていたのだけれど、反響が大きいのと僕の方でもテストプレイがしたいので、PLANETS CLUBのメンバー限定で11月、12月とその入り口の基礎講座を試験的に2回開講することにした。
 講師は僕一人だ。有名編集者や書き手を連れてきて、ワナビーを騙すようなスクール事業は悪質だと僕は思うので、まずは愚直に僕のスキルを共有することから始めようと思っている。そしてこれはライター講座、編集者講座というよりは、普通の人が「発信する」能力を高めるための講座を目指している。

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 そもそも、自分の責任で、自分の言葉で「発信する」というのは、職業にかかわらず現代人の基礎的なスキルになっていく(もうなっている)と僕は思う。だからコメント欄やソーシャルブックマークで見栄を張るのではなく、きちんとした文章で発信するようになりたい、と考えている人は少なくないはずだ。これはそんな人のための講座だ。そのために読むこと、調べること、書くこと、誰かに書いてもらうことを、僕が考えてきたことを「すべて」シェアする。 手探りのプロジェクトだけれども、受講者と一緒に作り上げていければと思っている。

 11月のプレ講義は今週28日(木)で、もう時間がない。こうしている今も僕は当日使用するレジュメをつくっているのだけれど、ここで強く感じるのが現代における「読むこと」と「書くこと」のパワーバランスの問題だ。一般的に文章力は読書量にある程度比例する。もちろんただ数を読めばよいわけではない。たとえば本を読むことが手段ではなく目的になりすぎている人ーー「読書メーター」やAmazonレビューに投稿することや、ブックカフェでこれ見よがしに趣味が良いとされている本を広げることに夢中になってしまう人ーーは、本を読んでいる自分を好きでいることのほうが大事になって、あまり内容を理解していない/しようともしないことが多いのも半ば常識だと思う(もちろん、そうじゃない人もたくさんいる)。しかしそれでも、絶対的な読書量がある程度ないと、文章の引き出しが少なくなってしまうことは間違いない。だから常識論として、「書く」力の基本は「読む」力だ。なので僕の講座でも、まずは「読み方」を(我流だけれど)みっちりレクチャーするつもりでいる。

 そしてこうした前提の上で強く感じるのは、現代における「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスの変化だ。今回の講座はちょっとこちらが予測できないレベルで反響が大きくて慌ててプレ開講を取り付けたものなのだけれど、端的に言えば僕はいま、読者の「書く」ことへの関心が想像以上に高まっているのを感じる。
 理由は考えてみれば明白だ。僕たちの世代にとって、「読む」ことと「書く」ことでは前者が基礎で後者が応用だった。「読む」ことがあたり前の日常の行為で「書く」というのは非日常のちょっと特別な行為だった。けれどもいまはたぶん、違う。多くの人にとっては既に(メールやSNSに)「書く」ことのほうが当たり前の日常になっていて、(本などのまとまった文章を)「読む」ことのほうがちょっと特別な非日常のことになっていると思うのだ。情報環境の変化が「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスを大きく変えているのだ。

 要するに、僕たちは「読む」ことの延長線上に「書く」ことを身に着けてきた。しかし、現代の人々の多くは既にそうはならないだろう。彼ら/彼女らの多くがおそらく「書く」ことに「読む」ことより慣れている。
 僕がこの講座をはじめようと考えたきっかけの一つが、SNS上でのコミュニケーションの安易さだ。たとえば「全体としてはAという傾向がある」と主張している人物に対し、(話題のもとになった記事や、前後のツイートすら確認せずに)「それにはBというケースもある(ので、私はあなたから一本取りました)」とドヤ顔でリプライを送る人はすごく多い。これは、単にその人が自分が思っているよりも安易で頭が良くない、という問題であるのと同じくらい「読む」ことに慣れていない人が「書く」ことだけ覚えてしまっていることに原因があると思うのだ。SNSのシステムに促されるままに、みんなそうしているからと安易な「発信」を繰り返していくと、どんどんバカになっていくというのが僕の持論だ。Web2.0的なものの背景にあった、人間は単に受信するだけではなく、発信することによってより情報に対して深く、多角的に考えるようになる、という前提は根本から疑ってかかったほうが良いだろう。「読む」力のない人間が「書く」ことの快楽を覚えれば覚えるほど、脊髄反射的な発信やタイムラインの「潮目」を読んである方向に一石を投じるだけの、事実上何も考えていない発信が増えてしまう。そこで僕は以前から提唱している「遅いインターネット計画」では、まず徹底的に「読む」訓練を読者に対して行おうと考えている。しかし、計画を進める上でそれだけでは足りないのではないか、という思いが強くなってきた。
 なぜならば現代の情報環境下に生きる人々は、読むことから書くことを覚えるのではなく、書くことから読むことを覚えるほうが自然だからだ。かつてのようにしっかり読ませること「から」しっかり書かせるというルートをたどることは、僕たちの生きているこの世界の「流れ」に逆らうことのように思えるのだ。現代において多くの人はまず、日常的に、脊髄反射的に、たいした思慮も検証もなく「書いて」しまう。それをまずは、しっかり「書ける」ように訓練を積んでもらう。その過程で「書く」ためには「読む」力が必要なのだと気づいてもらう。そして「読む」訓練をしてもらい、その上でもう一度「書く」技術を伸ばしてもらう。「読む」ことではなく「書く」ことを起点にした往復運動を設計しないと、このプロジェクトは成功しないのではないか。いまの僕はそう考えて全体のカリキュラムと当日使うレジュメを見直している。

 なぜ「読む」力が必要なのか。能力は高くないけれど、なにか社会に物を申したいという気持ちだけは強い人がSNSで発言しようとするとき、彼/彼女はその問題そのものではなくタイムラインの潮目のほうを読んでしまう。そしてイエスかノーか、どちらに加担すべきかだけを判断する。以前僕の友人の主宰するあるアートコレクティブが東京に大きな常設展示場を開設したときに、業界のある一派は一斉にそれを攻撃した。以前から業界から村八分にされがちな集団だったので、彼らとしてはいつものように石を投げたのだろう。そのとき僕は知り合いのあるライターが展示を見てもいないのにやんわりと(自分が表立って強い言葉で誰かを非難しているように見えないようにだけ気を使いながら)そのアートコレクティブに石を投げていたのをたまたま目にした。その人の前後の発言や過去の言及を調べ、これは完全にタイムラインの潮目を読んで点数稼ぎをしているなと判断した僕は二度とそのライターとは仕事をしないと決めてそっとFacebookをミュートしたのだけど、ここで重要なのはこのときそのライターはタイムラインの潮目(YESかNOか)だけを読んで、対象(展示)を一目も見ていないことだ。そう、タイムラインの潮目を読むのは簡単だ。その問題そのもの、対象そのものに触れることもなく、多角的な検証も背景の調査も必要なくYESかNOだけを判断すれば良いのだから。しかし、具体的にその対象を論じようとすると話は全く変わってくる。そこには対象を解体し、分析し、他の何かと関連付けて化学反応を起こす能力が必要となる。

 そして価値のある情報発信とは、(先程の例で言えば)目立っている彼らの存在に対しYESかNOかを述べるのではなく、たえばその対象を「読む」ことで得られた刺激から、自分で問題を設定することだ。単にあいつらは目立っているので、叩いて/褒めてやろうと考えるのではなく、その対象の投げかけに答えることで、新しく問題を設定することだ。たとえば彼らの掲げた「ボーダレス」というコンセプトから現代のメガシティにおける公共はいかに再設定されるべきか、とか民主主義のもたらす「世界に素手で触れられる」感覚の中毒性はSNSの時代にどう変化し得るのか、とか自分の手で新しく問いを設定することで、世界に存在する視点を増やすことだ。「書く」ことから「読む」ことにさかのぼることの意味はここにある。単に「書く」ことをだけを覚えてしまった人は、与えられた問に答えることしかできない。しかし「読む」訓練を積むことで、僕たちは「書く」ときに問を新しく設定し直すことができる。

 既に存在している問題の、それも既に示されている選択肢(大抵の場合それは二者一択である)に答えを出すのではなく、新たな問を生むことこそが、世界を豊かにする発信だ。僕はそう考えている。だからタイムラインの潮目をうまく読んで、いま叩いてOKな相手を素早くかぎつけて攻撃してインフルエンサーになりたい、とか思っている人はこの講座には来ないで欲しい。そういう人間に僕は軽蔑しか感じない。そしてそうではない発信を、問いを増やすことで世界を豊かにする発信に興味がある人は、僕らと一緒に試行錯誤するつもりで講座に加わってくれたらとても嬉しい。

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僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。