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『いちばんすきな花』と「二者関係」の問題

やはり『いちばんすきな花』については、書いておかなくてはいけないと思う。

これは昨年川口春奈と目黒蓮の主演で話題を集めた『silent』と同じ、村瀬健のプロデュース、生方美久の脚本によるテレビドラマだが、最初に言っておくがこれはいわゆる完成度の高い、洗練された作品ではない。描こうとしたものに対して若書きの作家の力量が追いつかずにから回ってしまっているところも目立つし、つくり手が登場人物たちとうまく距離が取れずに、公式の二次創作のような触り方をしてしまっているところで冷めてしまう人もいたと思う。しかし、こうした欠点が些細なことに思えるほど、この作品が野心的で、そして現代的な切実さをとらえていたことも間違いないように思う。

前提として本作は大半の民放のテレビドラマのように、人気タレントに流行りの職業を割り振って半年前にSNSでよくシェアされていた単語がモチーフとして頻出するような安易な企画とは異なっていて、しっかりと作り込まれている「作品」だ。今更だけれど、この国のテレビドラマというのは体制の間隙をついて「番組」ではなく「作品」を提供してきた少数の人々によって質的には支えられてきたのだが、本作で村瀬や生方という固有名詞はこうした仕事をする期待を大きく背負うものになったと言えるだろう。

内容を簡単に紹介すると、これは30歳前後の男女4人が「友だち」になり仲良しグループを形成する物語だ。そして全11話の物語の内容は、ほぼこの1行で要約できる。この間に物語内に起きた最大の事件は、「実は4人の共通の知り合いがいると判明したこと」だ。この世界にはFacebookがないのだろうか?と思うが、本当にそうなのだから仕方がない。では45分×11話も一体何を描いていたのか。それは、「人間関係に対する態度表明」だ。

この4人組はそろって「2人」になるのが苦手だ。彼らは「友だち」とか「恋人」とか「夫婦」とか「親友」とかの二者関係に名前がつけられて、「こういう関係」と互いが認識する関係に息苦しさを覚える(そのため特に、男女の恋愛関係がうまく構築できない)。吉本隆明的に言えば「対幻想」がうまく構築できないのだ。そして同じような違和感を抱く4人が「偶然」知り合い、メンバーのうち1人の家に集まるようになるところから、物語は始まる。つまり、うまく二者関係がつくれないことを自覚している人間たちが集まって、4人の共同体という居場所をつくろうとするのだ。

そしてこの4人は一緒にいるあいだずっと「自分たちは他の人たちより繊細だ」ということを確かめ合うためだけの会話をしている。この4人は日常のちょっとした言葉遣いや行動をあげつらい、普通の人達はとてもこの言葉を大雑把に扱っていたり無自覚にやってしまっているが、自分たちはそれらを細かく把握しそれぞれのケースに異なる対応をしているのだと確認し合う。そしてこのレベルで物事を把握できる自分たちは特別なのだというメタコミュニケーション通じて「安心」する。

生方がどれほど自覚的なのかは分からないが、一般的に考えて自分たちは繊細だと確かめ合う会話をして安心する人たちはその時点であまり繊細ではないし、自分たちが思っているほど深く繊細に物事を捉えてはいない。こうした薄っぺらさを指摘するのは簡単だ。しかし僕がこの作品について強く感じるのは、ほとんどオブセッションと呼んでいい切実さ、なのだ。

この4人は、あるレベルまで繊細に人間同士の関係性を把握し、コントロールしたいという欲望を抱いている。この関係性に対する拘泥が同じレベルの人間ではないと、安心して関係できない。そのために彼らは常に自分がこのレベルで物事を(通常の人たちより繊細に)捉えていると主張し続ける。そうすることで、他の3人は安心する。この人たちとなら一緒にいても大丈夫なのだ、と。これを「病的」だと切り捨てるのは、僕は間違っているように思う。

『いちばんすきな花』では「恋愛」の相対化が試みられる。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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