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麻布台ヒルズに行って、「チームラボ」とは何か、改めて考えてみた話

ご存知の人も多いと思うが僕とチームラボの猪子寿之とは古い友人で、2013年からコロナ禍の前あたりまでは、毎月のように会合を持ち彼の考えを聞き手としてまとめていた。その成果の2/3くらいは『人類を前に進めたい』という本になっているのだけれど、先月お台場から麻布台ヒルズにした「チームラボ・ボーダレス」のオープンに合わせた「楽天大学ラボ」の取材で久しぶりに長く話をした。電話やLINEではやりとりをしていたが、直接会うのは半年ぶりだったのだけれど、今日はその久しぶりの対談で考えたことについて書いてみたい。

僕が今日述べたいことは二つある。

麻布台ヒルズの新しい「チームラボ・ボーダレス」は単なる移設ではなく、個々の作品に大きく手が入り、新作も多いのでお台場の旧「チームラボ・ボーダレス」が好きだった人こそ、足を運ぶといいと思う。そしてチームラボの展示に、特にこのような大きなものだと「独り」で訪れたことのある人はあまりいないだろうけれど、僕は強烈に一度「独り」で訪れてみることを推奨したい。そうすると、いわゆる「インスタ映え」的なエンターテイメントとは異なったチームラボの魅力に気づくはずだ。

ある作品を眺めていると、あるいは作品品の内部に佇んでいると、視覚や聴覚が通常の状態ではいられなくなってくる。チームラボの「作品」を好むリピーターの多くは、この体験に快楽を覚えている。しかし「インスタ映え」する「思い出の一枚」を撮影することに夢中になっているとなかなかこれらの作品をしっかりと受け止めることができない。だから独り行くべきだ、というのが今日の一つ目の結論だ。

そしてもう一つの結論はチームラボの作品の「快楽」のメカニズムついて考えることは、この情報社会を考える上でとても大事なことなのではないか、ということだ。

こういうことを書くと少し驚くかもしれないが、たとえば今僕たちは「……する」ことへの「評価」と「……である」ことへの「承認」の間で揺れ動いている。単純化すれば、グローバルな資本主義のプレイヤーたちは前者を(経済的に)競い、ローカルな国民国家のプレイヤーは後者を巡って(政治的に)闘争している。しかし人間は、本当にそのどちらかがないと生きていけないのか……ということを僕はこの10年くらいずっと考えていて、その大きな手がかりになっているのが、このチームラボ作品の快楽のメカニズムなのだ。

戦後思想史に詳しい人ならここには丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』の現代的な(より悪化した)問題が現れている、と言えば分かりやすいかもしれないし、僕が良く引用するデイビッド・グッドハートのグローバルなクリエイティブクラス(Anywhereな人々)とローカルな労働者(Somewhwreな人々)の対立とも重ね合わせることができるだろう。

では、順に考えていこう。まず、僕が考えるチームラボの作品の気持ち良さというのは以下の二点に集約される。

それは第一に「自分は何もしなくても、世界とのつながりが視覚化される」こと。そして第二にこれは一点目と同じことを言い換えているのだけれど、人間が観念という形でしか考えられない現象を視覚化、聴覚化、あるいは触覚化していること、なのだ。

たとえば、チームラボには「Digitized Nature」と呼ばれるシリーズがある。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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