見出し画像

『ゴジラ-1.0』と「戦後」の問題

先週末に『ゴジラ-1.0』を観てきた。僕は山崎貴監督の、戦後日本的な「世間」の最小公倍数をマーケティングするような映画の作り方が苦手で、この映画の期待値もそれほど高くなかった。

しかし期待値が「-1」だったからこそ、鑑賞後の満足度はとても高かった。本作の完成度の高さについては、他の人がいくらでも書いてくれるだろうから僕は触れない。僕がここで書きたいのはこの映画が「よくできている」からこそ結果的にえぐり出してしまったものについて、だ。

結論から言えば、日本人はまず自分たちのアジアに対する蛮行を今一度正しく反省し、その上でアメリカに対しその戦時中の民間人虐殺についてしっかりと抗議するべきだ、というのがこの文章の結論だ。

誤解しないで欲しいが、この映画が提示しているのは素朴な反戦的メッセージと、巻き込まれてしまった人々への同情、そして作中の言葉を借りれば「貧乏くじを引くことになってしまった」ことを引き受けた人々への敬意、といった程度のことで、僕が今述べたような歴史認識や政治的な問題については踏み込んでいない。しかし、僕はこの「きちんと作られたエンターテインメント」を観て、このような問題を考えざるを得なかったのだ。以下、その理由について記していこうと思う。


「特攻」の否定と「利他」の肯定

前述にしたようにこの映画は「貧乏くじを引く」ことを引き受け、利他的な行為をすることが「成熟」の証だという人間観が提示されている。しかしそのために自己を集団のために犠牲にする(特攻)は否定される。この「利他的であるべきだか、自己犠牲は否定される」という感覚はありふれた現代的な社会観で、批判力こそないが多くの人々の「共感」を集めることができるだろう(僕も共感する)。

しかしここで問題になるのは、その対象が「ゴジラ」であることだ。映画を見れば一目瞭然だが、本作におけるゴジラは「戦争」の比喩である。主人公の敷島は特攻兵の生き残りだ。彼は特攻をおそれ、搭乗機体の故障を偽装して出撃を拒否する。こうして生き残ったことを、彼は後悔する。そしてその後ろめたさは、その後滞在した大戸島の基地がゴジラの襲撃を受けた際に、恐怖から応戦できなかったことでさらに加速される。

隠蔽される「アメリカ」の影

こうして敷島は戦後、自分には幸福になる権利がないと思い詰める。そして、そのうしろめたさは戦後、東京を襲撃したゴジラと戦うことで解消される。このとき、特攻は否定され、前述の「利他的であること」「しかし、集団に命を捧げないこと」の間でバランスを取るという「正解」が実現される。

この構造自体は、映画を見慣れている人であれば冒頭の10分で予測がつく展開であり、そしてその予定調和の快楽をこの映画はかなり期待通りに提供してくれる。ただ、僕が1点だけ引っかかったことがある。それは、「アメリカ」の存在だ。

「戦争」を「天災」のように描く欺瞞

要するに、ここでこの映画は戦争を天災のように描いてしまっている。天災には被害者も加害者もいない。しかし戦争は人間を被害者にも加害者にもしてしまう。要するに、ここで戦争を天災として描いてしまったことで、この映画は歴史とその責任というものから逃げてしまっているのだ。この映画で描かれる「利他的であること」の価値は、具体的に言えば他の日本国民の「ために」生きることだ。しかしその行為が中国や東南アジア諸国、あるいはアメリカの国民の人生を踏みにじる可能性が高いものであることを視野に入れない「利他」はかなり空疎なのではないか。

初代『ゴジラ』が結果的に担ったもの

いまさら指摘するまでもないが、日本人が戦争の比喩としての『ゴジラ』(初代)を受け入れた理由の一つは、おそらくそれが戦争の傷を物語化して昇華するものだったからだ。それが愚かなで残酷な日本人と同じくらい愚かで残酷な敵国との殺し合いであることを隠蔽し、「天災」に置き換えるものだったからだ。アメリカという敵に家族を、友人を、恋人を虫けらのように虐殺されながらも、そのことに抗議することすらできない。そのような屈辱的な現実を、戦争を天災に読み替えることで隠蔽してくれるからだ。

ここから先は

1,718字

¥ 400

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。