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『薬屋のひとりごと』と「正義感」の問題

実は昨日、一昨日と胃腸炎とそれに伴う発熱(38.9度まで出た)で寝込んでしまっていて、昨日の夜の『薬屋のひとりごと』についての座談会もその前後に吐いたり吐かなかったりしながらなんとかこなしていたのだけど、今日はその座談会から一晩経って考えたことについて書いてみたい。

僕は意外とこの作品が好きで、最初は話題作だから観ておくか、くらいのつもりでアニメ版をダラ観していたのだけれど、だんだん面白さが分かってきて、今ではヒロイン(猫猫)のような子が親戚にいたらものすごく可愛がるだろうな……とか思っている。

昨晩はどちらかといえばこの作品のハイブリッド性(ハーレクイン的な設定、中韓の「宮廷モノ」的な要素、子供向け科学啓蒙ものなどのハイブリッド)に焦点が当たっていたのだけれど、この文章では少し別の観点から考えたいと思う。

僕が何よりこの作品について感心するのは猫猫の圧倒的に「中二病力」の高いキャラクター造形だ。年齢に比して世間知に長けた「耳年増」で、基本的には物事に常に醒めたスタンスでかかわるが、好きな薬や毒のことについては子どものようにはしゃぐ。なんだかんだで正義感は強く、恋には鈍感……。この2024年、日本中に(いや、日本に限らず)中学校では『葬送のフリーレン』のフリーレンのような「感情に乏しい(が、いいヤツ)」に憧れて、あの淡白な喋りかかたを真似する男女(特に女子)が大量発生しているのではないかと思うが、同じレベルで猫猫風の「ひとりごと」を真似するティーンも大量発生しているのではないかと思うのだ。

そして今日僕が考えてみたいのは、こうした現代の「中二病ロールモデル」的なキャラクターが、社会の何を(結果的に)背負っているのか、という問題だ。猫猫は常に自分のことを一旦棚に上げて、周囲の人々を観察し、論評する。そして同時に若干拗ねた視点から(「これはかかわらないのが無難だ」とか、「私が考えても仕方がないこと」と内面で処理して)距離を置く。結論から述べてしまえば、こうした猫猫的な「ひとりごと」は、少し嫌な言い方になってしまうが、XなどのSNSでグチグチ言うのをやめられない「普通の(ちょっと拗ねた)人々」のメンタリティの延長にある。だからこそ、猫猫の物語が今後どう展開し、それが今日のようなポピュラリティを維持できるのかどうかを、僕はとても興味深く見守っているのだ。

このとき比較すると面白いのが同時期(つまり「今」)放送されている作品のヒロインたちだ。たとえばここで僕は先程も挙げた『葬送のフリーレン』のフリーレンと、あとこれは一見突飛に見えるかもしれないけれど放送中の大河ドラマ『光る君へ』のまひろ(紫式部)を挙げたい。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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