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『屋根裏のラジャー』と「表現の課題」の問題

先週末公開されたばかりの『屋根裏のラジャー』を観てきた。これは間違いなく意欲作で、要するに日本は手描きアニメーションの「良さ」を守っていけばいいよね、という「甘え」に居直るのも、かといって培ってきた手描きの「良さ」を捨てるのもあり得ないので、どう日本の商業アニメーションの外見を進化させていけばいいのかという巨大な問いに果敢に挑んだ作品ではあるだろう。実際に映画館に足を運んだ観客の多くが、これまでは観たことのないアニメーション「では」あった、と感想を漏らすだろう。なぜ「では」という表現が選ばれるのかと言うと、その理由はシンプルでこの映画はまったく「面白くない」からだ。

そしてなぜ「面白くない」のかというのがこの文章のテーマだ。別に僕はこの映画が面白くなかったと言いたいのではなく、この(おそらくはかなり野心的で、志の高い)映画が、その挑戦の背景なる問題意識が極めて適切あるが「ために」空回りしてしまったという皮肉な状況について、重く考えているので、そのことについて書きたいのだ。先に結論から書いてしまおう。この映画が面白くない理由は2つある。まずこの映画は、新しい外見を獲得することが手段ではなく「目的」になってしまっている。そして次にこの映画はそのために、何を描くべきかを見失っている。そのために観客たちは、この外見の上の新しさが何も表現していないことに呆然としてしまうのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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