この春から働き始める新「社会人」のみなさんは、「世間人」にも「共同体人」にもならないで欲しいという話
さて、今日は4月1日だということで、僕の友人や知人たちに「新しい社会人たちへ」のメッセージをSNSに載せる人が何人もいた。若い頃の僕はそういうのを目にするたびに「しゃらくさい」と思っていたのだけれど、今日は僕もそれに近いことを書いてみたいと思う。それは彼らの投稿を見て「社会人」ってなんだろう、と改めて考えたからだ。
先に結論を書いてしまうと、僕が今日「新しい社会人たちへ」というか、この国の若い現役世代全員に言いたいのは、世の中の大人のほとんどは「社会人」ではなくて自分の所属している団体や、業界の内部の文脈のことしか気にしていない「世間人」や「共同体人」に過ぎないということだ。そして若い人はそうじゃなくて「社会人」になって欲しい、ということだ。
社会人2年目くらいになると、仕事を覚えてきた若者はよく「業界」の話をしたり顔でするようになる。それがちょっと世間的にかっこいい業界とかだと、それが止まらなくなる。そしてこのとき、自分がローカルな文脈に詳しくなっているだけで、その文脈が通用する共同体の外には価値がない話をしていることに気づいていない人がすごく多い。
それだけならまだいいのだけれど、その結果としてその共同体の内部でしか通用しないコミュニケーションの作法を身に着けてしまった場合が厄介だ。最悪の場合、そのことに気づかないせいで「社会」人として大切な価値観、たとえばモラルを失ってしまうようなケースも珍しくない。
たとえば、昨今話題の芸能界の問題がそうだ。松本人志の件もジャニーズの件も、特に後者は知っていて知らないフリをしていたテレビ業界の関係者はかなり多かったはずだけれど、これが許容されていたのは「テレビとはそういうものだ」という常識があの「業界」の「世間」で共有されていたからに他ならない。
要するに、大手芸能事務所とは「もちつもたれつ」でやっていくのでとりあえず「顔を立てる」のがこの「世間」の「流儀」で、それを「清濁併せ呑み」受け入れるのが「大人」だということにあの「業界」の中ではなっていて、それを「みんな受け入れているから」そういうもものだ、とみんなが思考停止してしまっていた結果が、この未曾有の性加害事件を支えていたわけだ。
同じようなケースが他の業界でも山ほどある。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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