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第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(前編)|福嶋亮大

本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。
今回は19世紀ヨーロッパにおける社会思想について分析します。アメリカ独立戦争やフランス革命の反省から、個人の人権尊重への意識が高まった前半期から、自然科学が優勢となった後半期にかけてどのような思想の変遷があったのでしょうか。

福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ


1、消費社会と管理社会の序曲

 一九世紀ヨーロッパの社会思想史は、大きく前半と後半で分けることができるだろう。アメリカ独立やフランス革命を経た一九世紀前半には、誰もが自由や幸福を追求する権利をもつという理念が、多くの思想家たちに抱かれていた。彼らは、恐怖政治に陥ったフランス革命の限界を見据えつつ、貧困をはじめとする産業社会の問題に立ち向かう新しい社会体制を構想した。
 特に、一八二〇年代から四〇年代のフランスでは、サン゠シモンおよびその後継者たち(生産の優位を掲げ、人間による地球の開発を正当化し、社会を束ねる世俗宗教を支持した)からルイ・ブラン、ブランキ、さらにはプルードン(中間集団を一掃して個人を国家に依存させるサン゠シモンとは異なり、自立した個人がその労働を通じて自由と尊厳を得るアソシエーションを構想した)に到る社会主義者が、さまざまな国家像や労働観を示した。彼らはイギリスの産業革命のインパクトを強く受けつつ、しかしイギリスを「反面教師」として、労働者を中心とする社会革命のシナリオを描いた[1]。
 しかし、このような変革の機運は、一九世紀後半のヨーロッパでは萎んでしまう。革命運動が下火になる一方、自然科学や医学の重要な発見に伴って、形而上学よりも実証主義が優勢となり、経済的には繁栄期を迎えた。むろん、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争といった争いはあったが、それらはいずれも短期間に終わり、その戦域も限られていた。このおおむね安定した社会では、変革のエネルギーはビジネスや科学に向けられた。芸術家もそれと無関係ではいられない。例えば、一九世紀後半のドイツの教養市民層に根ざしたブラームスは、社会問題には無関心を貫く一方、ナショナリズムには熱烈に反応した。彼の音楽も、人類全体に呼びかけるベートーヴェン的な交響曲よりも、小規模で親密な室内楽に傾いた[2]。
 現代の政治学者ジョン・ミアシャイマーは、ナポレオン戦争後の一九世紀の大半が「多極的な安定構造」の時代であり「ヨーロッパ史の中で最も紛争の少ない時代になった」と評している[3]。フランス革命やナポレオン戦争のような血なまぐさい沸騰を目の当たりにすれば、その後にすさまじい変革の時代がやってくると考えるのが自然である。しかし、一九世紀ヨーロッパはかえって、大国どうしがバランスをとる相対的な安定期に入った。このような政治的不発の感覚が、当時のヨーロッパ的精神風土の根底にある。
 騒乱と変革の時代から、安定と均衡の時代へ――その折り返し点を示す象徴的な出来事が、フランスの二月革命のたどった奇妙な顛末である。一八四八年二月、経済政策に不満を抱いたブルジョワたちが、フランス国王ルイ゠フィリップの体制(七月王政)を倒して新政権を樹立した。このほとんど誰にも予見できない不意打ちとして起こった革命は、ただちにヨーロッパ各地に飛び火する。フランス革命以前のヨーロッパへの回帰を企てた「ウィーン体制」の旗振り役であった保守派のメッテルニヒも、オーストリアからロンドンへの亡命を余儀なくされた。フランスの革命はヨーロッパの「諸革命」(いわゆる諸国民の春)へと発展したのである。
 しかし、この不意に始まった諸革命は、あっという間に沈静化してしまった。革命運動が行き詰まるなか、ナポレオンの甥ルイ゠ナポレオン・ボナパルトが、一八五一年にクーデタを起こし、市民の絶大な支持を集め、翌年にはナポレオン三世として帝政を樹立した。彼がよく弁えていたのは、たとえ独裁者であってももはや民衆の「世論」を無視できず、禁止や抑圧という強権的なやり方では政権を保てないという、政治の新しいルールである。彼の体制はあくまで普通選挙の結果であり、民意の支持なしには成り立たなかった。
 こうして、いったん勝利したはずの市民革命が、皮肉なことにかえって反動的な帝政を呼び込んでしまう――しかも、このドタバタ劇の後、社会は表面的には安定と繁栄に向かった。オリジナルのナポレオンが軍事的な拡大をめざしたのに対して、そのシミュラークルとしてのナポレオン三世はむしろ商業的・平和的な社会を望んだ。彼の政権下で開催された一八五五年および六七年のパリ万博では、産業社会そのものが神聖化され、不衛生であったパリの街もジョルジュ・オスマンの指揮のもとで「改造」された。さらに、「貧困の根絶」を目標とするナポレオン三世は、金融と産業の発達によって貧困を除去しようとするサン゠シモン主義の継承者であり、労働者用の共同住宅やリハビリ施設を建設しつつ、新しいベンチャー・キャピタルの創設にも手を貸した[4]。
 この「第二帝政期」のフランスを覆ったのは、ナショナリズムとポピュリズムを背景としながら、産業そのものを宗教として、労働者の福祉や社会保障にも配慮するマイルドな権威主義であった。この新たな統治システムは、上からの一方的な禁止ではなく、ミシェル・フーコーの言う「管理」の技術を駆使しながら、世論を味方につけようとする[5]。そう考えると、一九世紀後半のフランスが、今日のポストモダンな消費社会・管理社会の序曲になっていることが分かるだろう。この時代を批評することは、ポストモダンの前駆的環境でいかなる芸術や社会思想があり得たのかという問いを惹起せずにはいない[6]。

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