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世界文学のアーキテクチャ 第一四章 不確実性――小説的思考の核心|福嶋亮大(後編)

福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ


7、グローバリズムをくり抜く地震

こうして、一八世紀の新興の小説家=散文家は、オープンで不確実な世界への冒険を活気づけた。ただ、ここには面白い逆説がある。それは、進歩的な冒険者に集中すればするほど、その主人公をあらかじめくり抜いている力が目立つことである。小説を読むとき、われわれは主体という「図」にフォーカスするだけでなく、主体の背後にあって主体をあらかじめ規定する「地」を考慮に入れなければならない。なぜなら、小説ではしばしばこの図と地の反転が生じるからである。
この問題を「地震」をモデルに考えてみよう。ヴォルテールが『カンディード』で一七五五年のリスボン地震の惨禍を取り上げる以前に、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』はすでに島の地震で生き埋めになる恐怖を記していた。島のクルーソーは、自分一人のための衣食住の場所を建設しようとする。彼の労働は「もつこと」と「住むこと」の充実によって「あること」(存在)を根拠づける作業であった。しかし、この建設の途上で不意に地震が起こり、クルーソーを驚かせる。

地震というできごとそのものに、ぼくはひどく面食らった。こんな感覚は味わったことがなかったし、他人から話に聞いたことさえなかったものだから、死んだように全身が麻痺してしまった。大地が動くので、まるで波に揺られたように吐き気を覚えた。(一一八‐九頁)

堅固な大地が、未知の地震によっていきなり海に変わってしまう――このアクシデントが、クルーソーの存在を揺るがし「吐き気」を催させる(なお、前章で言及したアフリカ人オラウダ・イクイアーノの自伝でも、ヨーロッパで地震を初めて体験したときの恐怖が記されるのは興味深い)。自己の核をくり抜くものとして、シェイクスピアが舞台裏の魔女の陰謀を露見させたのに対して、デフォーは大地を海に変える地震によって、クルーソーの心身を麻痺させた。ここには、自己の中心化によって、かえって自己の脱中心化も加速するというパラドックスがある[22]。
大地での居住可能性の喪失という危機は、意外にも、後のカントの見解とも共振する。リスボン地震の直後に、若きカントが地震の自然学的な分析に取り組んだことはよく知られている。彼は地下の洞穴に蓄えられた「火」が地震を引き起こすと予想したが、それは今から見れば当然誤りにすぎない。ただ、より重要なのは、不可視の地下が複雑なネットワーク(多様な迷路)で一つに結びついているというカントの見解である。「自然は、われわれの眼やわれわれの直接の探求に対して隠しているものを、その作用によって打ち明ける」。地震が打ち明けるのは、地上ではなく地下こそが、真にグローバル(全球的)な世界だということである。地震の教えを真摯に受け入れるとき、人間は世界の住人ではなく、むしろ「異邦人」として理解される。

人間ははかないこの世の舞台上に永遠の庵を結ぶようには生まれついていない。人間の全生涯ははるかにもっと高貴な目的をもっているのだから、この世の無常がわれわれには最大で最重要に思われるもののうちにすら垣間見させる破滅はみな、みごとにこの目的に合致してはいないであろうか。[23]

ヴォルテールにとって、地震が「すべては善である」と信じ込んだ神学者たちのたわごとへの挑戦であったとしたら、カントにとって、地震は哲学的な教えである。住処を破壊する地震は、人間の目的が「地上の富」の追求とは別のところにあることを教えている。なぜなら、地上の幸福を達成しても、それはいずれ地震によって解体される運命にあるのだから。
人間の目的を地上で完結させてはならない――このカントの戒告は、クルーソーへのコメントのようにも読める。クルーソーは大地と海を横断し、地上に住居を築くが、この活動の背後にはいわば地下のグローバリズムがあった。デフォーが示したのは、地上のグローバルな主体性をくり抜き、麻痺させ、不安定にする力としての地震である。興味深いことに、デフォーはその後も、主体とその背後の力をともに象り続けた。女性の一人称の自伝的小説として書かれた『モル・フランダース』や『ロクサーナ』は、グローバルな主体を女性化しつつ、その存在をくり抜く危機を克明に描いている。
特に、一七二四年に刊行されたデフォー最後の長編小説『ロクサーナ』では、その主体性が家族によって麻痺させられる。ロクサーナはフランス生まれだが、幼くしてロンドンに渡り、完璧なイギリス人になりきる。その後、社交界に出入りするようになった彼女は、結婚して五人の子を産むものの、その生活が破綻してからは上流階級の愛人となって栄達の道を歩む。この「悪徳」の暮らしは、結婚関係に縛られない女性の自由の表現でもあった。
しかし、ロクサーナは自分の置き去りにした娘を気にかけるようになり、密かに援助するが、今度は娘が母との血縁関係を証明しようと躍起になり始める。今の生活を脅かされたくないロクサーナは、シスターフッドで結ばれた女中のエイミーをスパイのように活動させ、娘から逃れようとするが、それは最終的に娘の殺害というショッキングな事件で終わる。上流社会でさまざまな仮面をかぶり、ヨーロッパを横断しながら生き延びてきたタフなロクサーナが、ついに自らのドッペルゲンガーのような家族の侵入によって破局を迎えること――この女たちの物語では、血のつながった自己のシミュラークルこそが、自己を足元からくり抜く地震となった。


8、自己の中心化と脱中心化――スターンのモダニティ

このような脱中心化の運動を極限に導いたのは、やはりローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』である。この小説はイギリスの紳士トリストラム・シャンディの自伝として書き出されるにもかかわらず、人生の記述の精密さを期すという言い訳のもとで、主人公の生まれる前の親たちのエピソードが膨張し、自伝をのっけからハイジャックしてしまう。本来は前に直進するはずの自伝的な散文が、通常の軌道から外れ、謎めいた回転運動を始める――この言葉の渦には、トリストラム・シャンディの自己以外のものたちが大量に巻き込まれてゆくだろう。
しかも、この常軌を逸する運動は、小説を成り立たせる文字の中心性をも解体した。スターンが小説に黒や白一色のページを挿入したり、大理石模様の挿絵を入れたりと、奇抜なイメージを導入したことはよく知られている。それらはまさに「偶発的なイメージ」の表現であり[24]、そこには二〇世紀の絵画的実験――偶然性を利用したアクション・ペインティングや、「無対象の世界」を追求した抽象絵画――が早くも予告されていた。このような破格の表現を駆使したスターンについて、ニーチェは卓抜な見解を示している。

彼[スターン]の賞賛さるべき点は、完結した冴えた旋律ではなくて、いわば「無限旋律」であろう、――明確な形式がたえず打ち破られ、乱され、不確定なものへと移しかえられ、その結果同時に二重の意味を持つに至るような芸術様式に与えられる名称としての「無限旋律」である。スターンはこういう曖昧性の巨匠である。(『人間的、あまりに人間的』第二巻)[25]

ニーチェが言うように、あらゆる「まじめさ」や「厳粛さ」を嫌悪したスターンは、真剣さと笑い、深遠な思考と滑稽さを共存させた。彼の小説では、知者と愚者の見分けもつかず、作者が読者になり、読者が作者になる(第三巻には、白紙のスペースをもうけ、そこに読者が自分なりに作中の女性像をイメージするよう指示する場面もある)。『トリストラム・シャンディ』を貫く「シャンディイズム」は、このめくるめく転変を――つまりあいまいさや不確実性を――それ自体として生き抜く態度に連なっている。
繰り返せば、文学のモダニティの特徴は、自己の中心化と脱中心化がともに進行することにあった。『トリストラム・シャンディ』はその破天荒な書き方によって、かえってこの近代の特徴を模範的に示している。語り手トリストラムは「脱線」こそが読書の生命だと述べながら「二つの相反する動き、お互いに両立できないと考えられた動きが、この著作に持ちこまれて、しかも融和している――一言でいうならば私の著作は脱線的にしてしかも前進的――それも同時にこの二つの性質を兼ね備えているのです」(第一巻第二二章)と自画自賛するが[26]、この「二つの相反する動き」とは、まさに自己を自己以外のものによってくり抜く運動に等しい。こうして、スターン的な自己はいわば「壺」のように象られるだろう。
私がここまで言及した作品は、いずれも主体の背後の存在に具体的な事件性を与えていた。しかし、スターンの場合、ダイモンの声も魔女も地震も出てこない。始まりも終わりも打ち消すスターン流の無限旋律のなかでは、不確実性の領野は一切の輪郭をもたず、ひたすら拡大してゆく。無軌道性という軌道をもつ流体的な文章のなかで、不確実性を解放しつつ管理すること――それがスターンの発明した驚くべき手法であった。とはいえ、それは孤高の試みというわけでもない。なぜなら、一見して無軌道な進行のなかで、文学的着想を巧みに練り上げてゆくスターンの文体には、当時の社交の場コーヒーハウスで育まれた「談話文化」の作用が及んでいたからである[27]。

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