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與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第13回 転向の季節:2013-14(後編)

今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」第13回の後編をお送りします。
宮崎駿監督の4度目の「引退作」となった『風立ちぬ』が「最良の歴史修正主義」たる相貌をみせた2013年夏の参院選では、平成政治の劇的な展開の原動力となってきた「ねじれ国会」がついに解消。安倍政権の国家主義的な宿願が次々と叶えられていくなかで、右派・左派を問わず歴史の文脈を空洞化させながら、いよいよ「戦後」への逆戻りが本格化していきます。
※前編はこちらから

與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界
第13回 転向の季節:2013-14(後編)

歴史の墓地

 アベノミクス相場と連動するかのように、社会や文化の全体にデーモニッシュな熱量が走った2013年、平成を駆け抜けてきた映像史上のプロジェクトが終わりを迎えました。9月、公開中の『風立ちぬ』を最後に長編アニメの世界を退くことを、宮崎駿監督が表明。引退宣言自体は『もののけ姫』から数えて実に4度目でしたが、内容が宮崎氏のプライベートと重なる「零戦設計者の葛藤」だったことから、今度こそは本当だと多くのファンが受けとめました。11月には高畑勲監督の『かぐや姫の物語』が公開。当初は1988年の『となりのトトロ/火垂るの墓』以来、四半世紀ぶりの同時公開を狙ったのが、例によって高畑さんの納期遅れで半年ずれ込んだもので、こちらも年齢的に最終作となるのは確実と思われました(18年に逝去)。そして2014年夏の『思い出のマーニー』(米林宏昌監督)を最後に、ついにスタジオジブリの制作部門は解散します。

 『風立ちぬ』をひとことで要約するなら、皮肉ではなく平成が生んだ「最良の歴史修正主義」と呼ぶべき作品でしょう。主人公は零戦を設計した航空技師・堀越二郎と、結核を病み内向的な作風で知られた同時代の作家・堀辰雄(療養体験に基づく代表作が、1938年刊の『風立ちぬ』)をミックスした設定で、未来の戦闘機を設計しながらも時局から距離をとり、軍国主義を肯んじない繊細な魂を保ち続ける。彼を支えながら病に倒れてゆくヒロインの菜穂子(堀のまた別の代表作と同名)が終幕、敗戦で事業が灰燼に帰した二郎に「生きて」と呼びかけるラストが──百田尚樹氏を含む[32]──多くの観客を涙させましたが、実在の堀越二郎は1965~69年にかけて防衛大学校の教授。国民感情としても自衛隊違憲論が強く、左派勢力が「軍靴の音がまた聞こえる」と強く糾弾していた時期のことです。宮崎作品が描く二郎とは、だいぶ違う人物だったことはまちがいありません。

 アニメの中の二郎はヘビースモーカーですが、結核を治療中の菜穂子の隣でさえ(仕事に必要だと言って)喫煙するシーンは、表層的なポリコレ違反を超えた「女性に対する無責任な甘え」の象徴だとして、公開時から一部で疑問視されました。ストーリーの全体としても、そもそも二郎はサナトリウムに入院中だった彼女を手紙で招き寄せ、それは「愛情ではなくエゴイズムじゃないのか」と叱る上司を押し切って結婚に踏み切ったのですから、女は男の活躍を支えるためにいるといった保守的な固定観念を、宮崎監督の世界観に見出す批判が生じるのも当然ではあります[33]。しかし今日同作をふり返って興味深いのは、実はまさしく同様の批評を平成の開幕期、昭和的なジェンダー観の権化というべき江藤淳が──宮崎作品の主人公の半身である──堀辰雄に加えていた事実との関係です。

 江藤は1985年から連載を始め、昭和の終焉を見届けて89年(平成元年)に完結させた『昭和の文人』で、純情な自伝的作家と見なされてきた堀辰雄が、いかに自身の出自を作中で偽ってきたかを暴露し、そうした書き手が「劃然と昭和文学の到来を告げる」[34]存在となったことの意味を問おうとしました。江藤は堀の出世作『聖家族』(初出1930年)が、本人と芥川龍之介の親交を素材にしながら現実感を欠く仮名を用い、軽井沢と本郷以外は地名も記されない抽象化された空間で物語を展開することを、こう指弾します。

「かかる架空の時空間の内部で展開される『心理』とは、必然的に始終疑似的な架空の心理以上のものにはなり得ず、人生上の真実とも文学上の発見とも程遠いものでしかあり得ないのではないだろうか。要するにてっとり早くいえば、ここに『嘘』以外のいったい何があるのだろうか?……そこに僅かに『夢』が存在し、辛うじて小説の『嘘』を減殺しているとするなら、その『夢』の核心を成す衝動こそは、単に出自の抹殺にとどまらず、むしろ日本からの離脱の願望そのものといわなければならない。」[35]

 読者はこの批判が宮崎駿の『風立ちぬ』にも一見、そのままあてはまることに気づくでしょう。戦闘機の設計者の「出自を抹殺」し、死の影を背負う文学者にすりかえることで、みんな内心では戦争は嫌だったとする虚構の歴史を作り上げる。特高警察の横暴さを聞いた二郎が「近代国家にあるまじきことだ」と口にし、「日本が近代国家と思ってたのか」と哄笑されるシーンに表れているように、そうした繊細さに託されているのは「日本からの離脱の願望」である。しかし結果として、自己犠牲のために命を失いながら笑って二郎を許す菜穂子といった、男性目線に都合のよい「嘘」が生まれてしまう──。

 2013年の夏に『風立ちぬ』を劇場で見たとき、私は発病まであと一年を残した「日本近代史の研究者」でした。もしそのままずっと大学で歴史を講じていたら、ここまでで結論としたかもしれません。しかし病気を経た後に再見したいま、私はむしろそうした批判は、同作にとってすべて織り込み済みではなかったかとの念に打たれています。

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