現象としての

議論手続きとリサーチクエスチョン | 井上明人

今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第5回です。今回は、「ゲーム」という日常語の定義不可能性について、帰納的、言語的な限界を明らかにすることで、ゲームの概念をより深く議論するための土台を構築します。

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第5回

第二章:議論手続きとリサーチクエスチョン

 <ゲーム>という現象には理性の領域にとどまらない学習や複雑な構造理解といった要素と深く関わるような興味深い要素がありつつも、一方でその全体像を描き出そうとしはじめると、途端にひどく曖昧なものになってしまう。――ここまでの議論を短くまとめればそういうことだ。
 本章はそのようなゲームのような曖昧な現象に対して、一体どのような手続きで議論をした場合に、これをさらに明らかにしたと言えるのだろうか?

「ゲームとは◯◯だ」というごく短い答えを本稿が与えることはない。本稿を読むことによって理解が促進されうるとすれば、ゲームのような曖昧な現象が、どのようにその曖昧さを保ちながらも、あたかもひとつのまとまった概念であるかのような振る舞いをしてみせているのか、というこの構造について理解をすすめることになるだろう。
 だが、これについてもいくつもの注意をした上で、議論をすすめていく必要がある。日常言語や日常概念の問題をどう考えていくのか? 学際的な議論をどう扱うか? 創発的な現象をどう扱うか? 分類についてどう考えるか? というような方法論的な問題について答えておく必要があるだろう。


2-1 日常概念を考えるということ

2-1-1.日常概念は揺らぐ?:ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」

 まず、前章ですでに述べたとおり、ヴィトゲンシュタインの有名な議論で、「ゲーム」という言葉は日常概念の曖昧さの代表例として挙げられた。チェス、ボーリング、ポーカーといったものはそれぞれゲームと呼ばれるが、それらに共通したしっかりとした性質があるというよりは、それらはぼんやりと類似している(家族的類似)にすぎないという議論だった。
 「ゲーム」について何かしら明らかにしようと試みるとなると、「ゲーム」という日常概念の曖昧性を論じようとするこのヴィトゲンシュタインの議論と対立してしまうように見える。「ゲーム」とは何かと論じようと思うと、まずここで躓く。
 これについての、筆者の立場は簡単で、「ゲーム」という語が日常語であるということについては、まったく何の異論もない。日常語であるということは、確定した意味を記述することが極めて困難であり、複数の概念が合成され、曖昧に結びついた何かであるということだ。
 この複数の概念が曖昧に結びついた何か、について筆者は考えたいと思っている。そして、また複数の概念の結びつきが、その概念にとって本質的(欠かすことができない/それ抜きでは成立しない)ものだというつもりもない。ただし、複数の概念の結びつき方にそれなりの再現性をもった、安定性のある振る舞いが見られるだろうとは考えている。
「ゲーム」という概念自体を厳密な概念に仕立てあげていくことは難しい。これが曖昧さをもった日常語であるという実態はなかなか覆しがたいことで、それに挑戦しようというつもりはない。これは政治的な運動や商品のパッケージとしてはよいかもしれないが、概念的な厳密さをもった学術的な述語として通用させようと思うと、かなり困難なものだろうと考えている。
 ただし、その一方で「ゲーム」に関わる現象のいくつかを分析的概念として用いることは不可能ではないと考えているが、それは日常語としてのゲームという概念をいちど切り崩して、そのうえで、ゲームにかかわるいくつかの現象を分解しようとしたときに初めて見えてくるようなものだろう。たとえば、「ゲームの楽しさ」といったとき、そこには、ゲームを遊びはじめる前のワクワク感や、ゲームに習熟していくときの上達感、ゲームに習熟したもの同士の対戦で生まれる際どい駆け引きの楽しさ、コンピュータ・ゲームをクリアし終わったあとの達成感など、さまざまな楽しさが含まれている。そして、ゲームを構成している、ルール、インターフェイス、映像、音楽などそれぞれの構成物に細かく名前を与えていくことはできるだろう[1]

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