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中心をもたない、現象としてのゲームについて 第35回 第5章 ゲーム/遊びはなぜ分かれ、接続するのか|井上明人

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。
連載本編としては実に4年ぶりとなる論考です。本章から「ゲーム(game)」と「遊び(play)」の定義を分析しながら、文化人類学的視点で「ゲーム」の本質を探ります。複数の言語での定義や、ホイジンガ、カイヨワといった古典を参照しながら、近年の研究において「ゲーム/遊び」の分節・重なりがどのようにみなされているか概説しました。


井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第35回 第5章 ゲーム/遊びはなぜ分かれ、接続するのか

5.1 gameとplayの分節と連結

 さて、学習、コミュニケーションの問題を扱ってきたが、最後の大きな論点として「プレイ≒遊び」の概念を考えたいと思う 。
 「遊び」の概念は、「ゲーム」の概念を考える上で、しばしば重要な論点とされる[1]。
 たびたび触れてきたように「ゲーム」という言葉がひとまとまりの言葉である、ということは歴史的・地理的に普遍的な事実ではなく、その概念の分節化のありようにはゆらぎがある。
 まず、この言語間の意味のゆらぎの問題を考えるところからはじめてみよう。
 ドイツ語や、フランス語では、「game」という言葉が「play」のニュアンスと繋がったようなspielや、jeuといった言葉があるし、明治~大正期にかけて日本で「ゲーム」という言葉に対応する言葉として「競戯」、すなわち競い、戯れるという訳語があてられた[2]
。 
 では、日本語において歴史的に「ゲーム」に類する言葉が全く存在しなかったといえば、そうではない。「あわせもの」という「ゲーム」にやや近い意味の古語もある。また、現代日本語の「遊び」には英語の「play」と違って、音楽の演奏という意味は含まれないが、中世においては「あそぶ」という言葉に音楽の演奏を指す用法が存在したこともある。 
 英語における「ゲーム」の意味も、決して安定しているというわけではないが、現代英語における「game」「play」および「game」と「play」を包括した概念の範囲をより、包括的な言語間のばらつきについてFelix Labed[3]がまとめたものがある。(表を参照)

 この表を見てわかるとおり、gameと、playの概念区分は、大まかにいって両者が分節化されている地域と、ひとまとまりの概念として存在している地域があるということがわかるだろう。
 ゲームについて考える論者の多くは、この分節化をもたらすキーとなる概念は何かということを論じることが多い。確かに英語のgame/playという単語の問題を考えるのであれば、分節化の基準について考えようとするのはわかる。
 しかし、ここで強調したいのは、この2つの語彙には、分節化をするメカニズムが働きやすいのと同様に、両者を連結させようするメカニズムもまた同時に存在しているだろうということだ。この2つのメカニズムが同時的に機能する状態とは一体どういうことなのだろうか? 分節と、連結の双方が働くメカニズムの両面を考えてみることとしよう。

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