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第1章 デジタルネイチャー下における人間、言語、そして身体|落合陽一

メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、待望の更新です。
前回の序章につづき、第1章では前著『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』で展開された新たな「自然」としての社会環境が立ち現れる中で、「人間」なるものがどのように再定義されていくのか、言語や身体の役割をふまえて展望していきます。

落合陽一 マタギドライヴ
第1章 デジタルネイチャー下における人間、言語、そして身体

デジタルネイチャーにおける「人間」という存在様式の拡張

 本章では、デジタルネイチャーという新しい自然の下で、人間と身体がどう変容していくのかを考えていきたいと思います。
 たとえば、アートの話から始めましょう。ここ10年は、チームラボに代表されるような、個人ではなくて集団でシェアして制作するアートコレクティブが隆盛する時代だったと言えるかもしれません。
 特にテクノロジーの運用が必要なメディアアートの分野で顕著ですが、ホストを補うために他の仕事をやる集団がいて、そこでプロダクトを作るというスタイルが、アートの世界にも移ってきているという流れがあります。
 コレクティブ(集団)という観点で言えば、集団を仮想的な個人とみなす「法人」は、人類史における大きな発明です。それは主に資本主義社会の中で、大量生産・大量消費をするために生み出されたものでしたが、アートのように個人の人格とは切り離せない唯一性の高い行為だとみなされていたものが、いまは法人によって担われつつあるのです。
 もちろん昔から、バンドや音楽、創作グループというものは存在しました。そう考えると、これは漸進的な変化ではあるのですが、アートコレクティブという形態がここまで取り沙汰されるようになったのはここ最近で、21世紀になってからのことです。

 このことを捉え直せば、ではアートのような創造行為のベースとなるような、個々の人間の身体や存在の本質とは何だろうかという、逆の問いかけが成立します。
 実際、マタギドライヴ時代の身体をめぐっては、人間がいかにデジタルに変換しうるかということが、(COVID-19以降は特に)重要なトレンドとして浮上してきます。デジタルの向こう側に、はたして本当にフィジカルな人間がいる必要があるのでしょうか?
 この問題設定は、前著『デジタルネイチャー』での議論を継承するものです。
 『デジタルネイチャー』では、「物質−実質」「人間−機械」という2軸がクロスする4象限のマトリクスを設定して、それぞれの間にさまざまなコミュニケーション可能な存在者が登場しているという話を書きました。
 つまり、物理空間上の身体をベースにした物質的な人間だけでなく、情報空間の上にバーチャル(実質的)な身体を持つ人間や、実質と機械の象限にある人工知能(AI)たち、あるいは物質的な身体をもつ機械であるロボットやアンドロイドといったものたちです。そうした中間的な存在者たちが、デジタルメディアを介してテレプレゼンスされたり、何かの問題を解くために自律的に思考したり、あるいは肉体としては死んでいるはずなのに生きている状態と同じような活動をしたりする世界が到来しつつあるわけです。
 実際、現在の社会制度にあっても、バーチャルな存在でしかない法人は、ひとりの人間の人格に近い概念として認められています。このように人間は、社会環境の需要に応じて自らについての概念を書き換え続けてきている存在なので、生まれながらに人間という生物種であるということは、必ずしも人間であることの要件ではなくなってきているわけです。

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(引用:『デジタルネイチャー』P170)

 そうなると、人間の身体論は従来とは大きく変わります。つまり、これまで人間だと思われているものは、図の左上の「物質×人間」に限定されていたわけですが、いまは多くの人々が左下の「実質×人間」としてバーチャル化した人間に触れていることになります。
 一方で、右上の「物質×機械」の存在者たちは、いまはまだはっきりと線の向こう側にいるものとして認識されていますが、人間同士のコミュニケーションと同じように、感情を動かされる人がこれからは増えていくことでしょう。右下のAIについても同様です。
 デジタルネイチャーの環境下では、人間の身体や精神といった主体性が、実質や機械の側に染み出すように拡がっていくのだと言うことができます。
 したがって、マタギドライヴの問題意識は、まず「人間って何だったのだろう」ということから始まります。人類という種は、最初こそ図の左上から始まりましたが、最終的にはこの図の全てを覆っていくんじゃないか、いまはその被覆面の一部を生きているに過ぎないのではないかと、私は考えています。それが2045年なのか2100年あたりなのかは、まったくわかりませんが、AIに人格が認められていく時代は、いずれやってくるでしょう。

 当面の短期的な見通しとしては、物質的な人間の身体を置き換えうる「実質×人間」のデジタルヒューマン化のための技術に関する限界費用はまだ高く、また投入できるリソースに応じた解像度にも相当なばらつきがあるので、新しい身体観を獲得できる層とそうでない層との間に、大きな格差が生じていくことでしょう。
 たとえば最近はテレビ会議での面接が行われている就職活動の現場で現在進行中に起きていることとして、リモート環境の整備度合いやノウハウの差によって、映像の映りがいい人と悪い人とでは、まったく評価が変わってしまうという話を、企業の人事担当者からも聞くことがあります。
 こうしたことの是非が、デジタルネイチャー環境の確立期には常に問題になっていくことは避けられないと思います。

 これは本質的には、あらゆるコミュニケーションがデジタル化してきたときに、人類が生得的に有している格差も含んだ多様性の分布を、どこまで資本の再分配やテクノロジーの力で均して回収・改変していくのが適切なのかという、近代的な人権概念の適用限界やリベラリズムの根拠、あるいは生命倫理といった領域にも直結していく問題だと考えています。
 そもそも、「物質×人間」の象限だけが「人間」であった従来の世界では、生まれ持った肉体がたまたま持っていた染色体の組み合わせで男性/女性といった性が決まってしまいます。そして、主に生殖可能性の有利不利をめぐって、容姿や身長といった生得的な属性のランダムなばらつきを序列づける価値付けが行われ、それを埋め合わせる行動によって社会が駆動しているという側面があるといえるでしょう。

 たとえば、生得的な容姿のばらつきを化粧によって調節するという社会慣習がありますが、これは考え方によってはメイク用品という資本主義社会の産物によってなされているといえないでしょうか。そうやって考えると、すでにして現代は、資本主義というゲームにおける勝敗が見た目を決定する世界になっているのです。
 そして人間が生まれ持った身体のランダム性を維持せず、資本によってランダム性が回収されてしまうような時代では、逆に持って生まれた環境における資本の格差によって、社会的な格差が固定化して継承されていくことが当たり前になっていくでしょう。
 デジタルヒューマン化によって生じつつあるデジタルディバイドも、こうした資本の論理によって様々な格差が、より固定的な方向へシフトする例の、ひとつに過ぎないといえば過ぎないものです。特に目下のコロナ禍は、そうした新たな付随格差を、わかりやすく可視化させているとは思います。

 ただ、私が6年前に『魔法の世紀』で書いたのはそうではなく、むしろ「実質」や「機械」の側に介入して「人間」の捉え方を拡張することで、フィジカルな身体がもつある種のランダム性を享受して、ダイバーシティを許容する人間性が培われていくという像でした。それは利用可能なテクノロジーの限界費用の高さと相まって、「物質×人間」の世界で築かれた価値の固定性を崩すには至らないため、現時点では長期的な期待に過ぎませんが、これから実現をめざすイノベーションの指針としての有効性には、なんら変わりはないと考えています。
 デジタルネイチャーへの過渡期にあって、ブレグジットやトランプ旋風のように、たしかに2010年代後半の世界は、コロナ禍になる以前から「映像の世紀」の虚構性への反動のモードが強まっていくトレンドが見られました。しかし同時に、人々が「実質」と「物質」の垣根をなくす解像度の問題に、かつてなく敏感になってきているように思えます。
 テクノロジーの進歩によって新しい霊性や物質性のようなものがピクセルやCGの上に宿っていくのと同時に、それを探求するユーザーの側の創造が、多様な民藝性を帯びつつあるという兆候もまた見られる傾向にあると思います。

人類社会の発展史から「人間」の在り方を捉え直す

 こうした変化を受けて、マタギドライヴにおける人間像はどのように変わっていくのか。いま日本政府は、これからの社会を築いていくための科学技術政策の長期的なフレームとして「Society 5.0」というビジョンを掲げていますが、この整理を借りながら、そもそも人間像とは何なのか、それがどう変わってきたのか、どう変わりうるのかを、捉え直していきたいと思います。

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