No.3 Gaia Youthを前に、
GW開催のガイアユースの準備も佳境。
少しでもみんなで知恵を寄せられる時間をつくる日々が続いています。
wakurabaは、無理をして事を成し遂げるよりも無理はしないで事は成り行きに任せてみようという心持ちの人で成り立っています。
そうわざわざ書くのには理由があります。
思いを形にしていくという点で、プロジェクトの成功、目標への到達は確かに大事だと思います。しかし、成功や達成をして結局どうしたいのか。成功や達成を、どのような尺度で測り、なぜ私たちはその尺度を採用するのか問いが次の問いをみだします。
それにずっーと沿っていくと、この世界がこうなっている不思議、<自分>(存在)や人生にまつわる不思議、自由や幸福、真の豊かさなどわかりませんが、とにかくシンプルにシンプルに、そして眼差しは内面に内面に向いていくように体験的にそう思います。
一年前、ガイアユースを開催しようと意気込んでいた頃はどこか「そうなっていること」に委ねることを恐れ、未だ来ぬことや過ぎ去ったことに常に意識を奪われ、眼の前のことを認めたくない認められない気持ちが大きかった気がします。
変化してしまうともとからそんな風に生きてきたかのように感じるのですが、顕著な変化は遠くに達成すべきゴールを置き、如何にそのゴールに向かうために出来ていないところを洗い出し、日々の行動に落とし込んでいくのか、という行動・思考パターンから、「なるようになる」、旅先でざっくり目的地を定めながらも町並みを楽しみ、マーケットで光る一品を物色し、良さ気なカフェでコーヒーを頼んでみるかの如く、いわゆるプロセスそのものに大きな関心が向くようになりました。
どんな犠牲を払ってでもイベントを開催しようではなく、大事にしたいことが大事にされなくなりそうならイベントはやらないほうがいい。
イベントでどんなにいい顔をしようとしても、普段の関係性以上のものは何もでてこないと感じています。身・口・意の一致、そこに人はかなり敏感なように思います。
と、思うからこそ心の靄はとても気になります。
ここしばらく、僕はある仲間に対して事ある毎にイライラしながらも、それを些細なことだいちいちそこに気を取られていたら、やっておいてほうがいい掃除や事務に時間を取れないなど理由をつけ放っておいていました。
放っておいてると表現しましたが、どこかでは常にそいつのことを考えていて、本当には放ってなど置けていないことは明らかでした。
ともあれ、食事の準備中に漫画を読んでいたり、片付けが終わったところで手伝いの声をかけてくれたり、頼んだことが頼んだようなクオリティでは仕上がっていなかったり、、、何かにつけてあの人は頼りにならない人、できない人とレッテルを貼り、冷たく素っ気ない態度で接してしまう一ヶ月弱を送ってきたのでした。
それもそれで嫌な気持ちになりますから、そいつの接触を避けるように生活するのですが、それも不自然で無理がある。それで、あるとき場に冷たい素っ気ない態度がこうこうこのような場面で出ることを報告しました。
みんなであれこれ探っていくと、僕の個人的な悩み事のように見えていたことは、けっこう多くの人も共通して取り憑かれているパターンのようにみえて来ました。
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