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個人主義とは、ようするに人格の問題

 100年以上も前の夏目漱石の個人主義の主張を、イギリス流の古い話だと一笑に伏すことはできないだろう。

 漱石が批判した数々の不合理が、その後の日本を覆いつくし、だれも止めようのない全体主義国家を作って近隣諸国民を巻き込んだこと、敗戦で終結する戦争の道に進んだことに通じるからだ。しかし、それだけでなく、今日の事態にやりきれないものを感じるからである。

 5.15事件の犬養毅、「反軍演説」をして衆議院銀の座を奪われた齋藤隆夫を取り上げた。個々の例を挙げればこの人もこのこともと、沢山あって、できるかぎりそれらのことを僕たちは知っていないといけない。だが残念ながら、余裕がないからか、その方向を今の世に見出すことは難しい。

 もちろん、科学技術は一部の人たちのために伸びているものではないから、時代の変化には素晴らしいものがある。しかしその進歩を軍備に結びつけて考えることは一般の人の思うところ、望むところではない。

 「個人主義」という古くて新しい現代的問題が、新たな顔を見せてくれるように僕にできるだろうか。読者の皆様の受け止め方次第であるけれども、少なくとも僕としては「個人主義」に焦点を当てつつ、そこのところを展開、発展させて考えて見たいのである。

 自分さえよければいい、他のこと、他の人びとにことは家族の人を含めて余り考えないでいい、それが個人主義で、極端になれば利己主義だ、と思っている人がいるだろう。でも一線を引いておきたい。個人主義は個の自覚だが、他を無視するどころか、他を良く知ることが大切なのだ、とそこは漱石の言に従いたい。他に対する己の責務というものを考えることを抜きにするわけには行かない。そう考えるのである。

 これまでは、個々人がどこに属するか、どうあるべきかと考えられるのが普通ではなかったか。この受け止め方の典型的な形は「国家主義」や「党派主義」にまとまったり、「家族主義」や「家庭主義」に見られたりする。国も、家庭も大切である。しかし、それが個々人の上に立つと考えるのを止めなければならない、と僕は思う。

 個人主義と言われるのは、個々人が神や教会に属するものだったり、誰か偉い人や、党派のためのものだったりして、極端かも知れないが、自分を捨てる信念や自覚を得ることが何よりも大切にされてきたナガーイ歴史があって、それに対してのものだと考えられる。

 学者たちは、例えば「啓蒙主義」の問題とか、様々な関わりを見出して、類型的分類をしなければなるまいが、僕はここで、個々人があって家族や社会が成り立っているという当たり前の事実が見えなくなったということを意識してもらいたい。そのため「~主義」の言い方で主張されないと、その歴史の潮流から出られない。そうは言えないだろうか?

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 僕の感覚では、「個人主義」という主義は歴史的なものだ。100年以上も前に漱石が述べたことは、今や個人主義とあえて言わなくてもよいということだ。一人一人が、個の自覚を高め、精神的に自立して、家庭や家族、社会や国を構成するようになる。踏み外せない永遠の道はそこにあるのだと思って良いだろう。

 しかし、それが全体として了解されるにはあとどれくらいかかるだろう。ちなみに今分かり易いのはマスクの話だろう。テレビでも、「特に夏場については、熱中症予防の観点から、屋外でマスクの必要のない場面では、マスクを外すことを推奨します。」と放映される。屋内でも、「他者と身体的距離が確保できて会話をほとんど行わない場合(例:距離を確保して行う図書館での読書、芸術鑑賞)」必要なしとある。折角お役所が広報してくれたのだから、暑い陽射しが差す日中街ではさぞかし、と思いきやどうだろう。ほとんど変化なく、皆さんマスクをして歩いている。

 周りの人や、テレビに出る方々、政治家の皆さん、マスク姿が否応なく目に入ってくる。厚労省が折角広報しても今のところあまり効果を上げていないようだ。もちろん、人に迷惑をかけないのもウィルス対策の基本である。

 それはそうだが、科学的に考えた結果ではなさそう(失礼!)。目に見えるものに従う習慣をバカにしているのではなく、普通はそういうものだと思う。それにしても、もう少し気を楽にしたら、と思ってしまう。ちなみに僕はマスクすべきと思ったらするので常に持ち歩いているが、さすがに外歩きや、郊外ではマスクをして歩かない。

 これは、individualization の結果ではないか、と僕は見ている。え?何だって、「インディヴィジュアリゼイション」?まぁ、要するに「個人化」ということなのだが、実はなかなかの問題なのである。

 この語「インディヴィジュアリゼイション」は、社会変動の著しい欧米社会において、個々人の選択の自由が広まったと同時に、「自己責任」という関連でとらえられる。だから、社会学の問題として受け取られる。しかし、待てよである。僕らは本当にバラバラなの?

 それを作り、産んだ人の顔が直接見えずとも、着るもの、食べるもの抜きに僕らは生きていかないではないか。それだけではない、歩く道も、建物も、人の働きや関わりをもって僕らの現前にある。そのことが意識されなければ、人がバラバラに見えてしまってもおかしくない。

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           上の写真は福澤諭吉です

 一人一人をバラバラにしてしまう社会の傾向を指して、「個人主義」(individualism)と同じではないかと見る向きもあるだろう。いや、そうではない。全く異なるのだ!福沢諭吉は、「学問のすすめ」で、自由、平等をうたい、独立を主張した。新しい時代を学問を通じて、見出そうとしたことは誰しもが知るところである。言ってみれば、紛うことなき帝国主義の時代、封建的身分制は最早守るべきものではなく、学問ある者が立って、国家の独立を果たすのだと説く。

 今日、福澤の侵略主義的思想や差別思想を精査のうえ、批判する研究者が多くなった。だから、ある意味福澤の上の主張もその関連で理解することもできようが、自由、平等、独立の気概と考えや、学問の意義を否定することになれば話は異なってくるだろう。

 新しい思想はそう簡単には支持されない。後の人たちから見るのとは大違いという面があろうものだ。福澤諭吉に示唆を受けた若者たちや教育者などの中には、大きな夢を胸に蓄えることができた人があろうし、実業界や共産主義に至るまで、幅広くその影響を見ることだってできよう。

 ちなみに、犬養毅は慶応大学出身であり、彼の演説は「三田演説館」で圧倒的な力を誰しも認めるものだったそうである。そうした流れの中に、知識人すなわち幸いにも学問経験を持つ人たちが認められ、漱石もその流れにあったのだ。

 ところで皆さんは、「せろん」と「よろん」の違いを考える機会があっただろうか。僕の小学生時代、先生は「世論」をどちらで読んでもいいと不思議なことを言ったけれど、戦後しばらくは戸惑いの時期だったのだと思われる。

 20年ほど前に京都大学教授の佐藤卓己(1960年~)さんの話を大坂外語大(今は大阪大学の外国語学部)で聴いた。資料を駆使した詳しい話を頂戴したのに、簡単で恐縮だが、「輿論」は、「よろん」と読み、例えば、漱石や鴎外など学識ある各界の代表的人物の見解を指し、「世論」は「せろん」と読んで、一般の人びとがどう感じているかを集めたものという。目からうろこだった。ちなみに西部邁(1939年~2018年)さんは歴史に裏打ちされているのが「輿論」で、「世論」は流行に過ぎないと区別したようだ。

 二つの語は大正期までかなり明確に区別されて使用されたそうで、庶民は新聞を読んで「輿論」を気にしたものだと佐藤さんは指摘していた。大正生まれの僕の両親も「ヨロン」と「セロン」を一緒にはしない風があったように思う。

 時代は今日となり、問題は「ヨロン」がものの筋を通そうとして発せられたものを指すとは限らなくなった。もっと言えば、「ヨロン」は大多数の「意見」の集約と思われ、学問云々、知識や教養ではない。誰しも高等教育を受ける時代となれば当然のことのように思える。

 けれども、僕に言わせれば、その「高等教育」が大学も含めて、本物かどうか、あるいは学生にそれを受けるだけの生育が為されているかどうかである。教育からの鋭い批判が必要に思われる。そこでここでは、「家庭」こそが大切だとする考え方に、バラバラの「個人化」社会の壺があることに気付いてほしい。

 漱石の言うところがイギリス流儀だと言うだけなら少しも有り難くない。何流と言われようとも、一人一人の自覚をもって、己の家族や社会をとらえる能力の涵養が視野に入らずしてどうする、というのが肝心かなめのことだと僕は思う。

 個人主義は、人格の問題としてとらえるようでありたい。確かに、家庭は大切だが、平和をとなえ、家庭を言えば大向こうが黙る、従うというわけには行かない厄介な時代だ。

 国や家庭による「人づくり」というが、僕にはあまりに「ヒト」を軽く見る言葉に聞こえてならない。示唆的なのが「子どもの権利条約」である。

 国連には、1959年には「児童の権利に関する宣言」があって、30周年を迎えてこの条約となった。日本も加盟している。30年以上も前の条約だが、その第2条には、「締約国は、児童がその父母、法定保護者又は家族の構成員の地位、活動、表明した意見又は信念によるあらゆる形態の差別又は処罰から保護されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。」とある。

 これを見てわかるように、子どもの成長を阻害する家庭からも、子どもを守らなければならないとされているのだ。要するに、国際社会は、一人一人の子どもの「人格」を尊重し、その発展を自覚しなければならないのである。

 思いだして欲しい。「人間」のことは、それこそ大昔から考えられ、論じられてきた。しかしそれが、本当に「すべての」人をみてのことだったのか。女性、子ども、障害のある人、税の納められない人、他国人、奴隷etc。

 平和だって同じことだ。平和を求めると唱える者が、力で他を威圧するのはどういうことか。自分の、あるいは自分たちの平和に過ぎないものだったりする。家庭も同じ。こうした言葉のまやかしを見抜くには、人格(社会的責任があるからで、法人格も同じ)に焦点を絞らねばならない。哲学的に考えるとはこういうことだと僕は確信する。


 (ちょっとリキが入りました。大事なこと、一番言いたいことを綴ったかなと思っています。最後まで読んでくださり大変感謝したい気持ちです。不十分な議論と思いますから、お教えいただくことがあろうと思います。どうぞ宜しくお願いします。)





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