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第11回 「表現と認識の自由」

【日時】2019年5月24日(金)
【講師】黒木洋平さん
【内容】「よく見る」ことと「よく話す」ことのワークショップ

今回の講師の黒木さんは、亜人間都市という演劇ユニットの主宰で、普段は劇作家、演出家として演劇を作っている方です。また、演劇のワークショップ(別に演じるわけではない)も企画していて、そのワークショップに参加したことがきっかけで、講師をお願いすることにしました。

ここから当日のレポートです。

参加者は15人くらいでした。事前の予定を大幅に超えてしまいましたが、どうにかなるだろうということで、そのまま始めました。教師が2人、中学生が8人、高校生が5人という構成でした。

会場は教室でした。机をはけて、椅子をまるく並べて、全員が全員の顔が見えるように座りました。黒木さんに簡単な自己紹介と、これからすることの説明をして頂いて、いよいよ始まりました。初参加の中学生が多くいたからか、普段よりも緊張感がありました。芸術幼稚園に慣れすぎて、もう何の緊張も恐れも感じられなくなっていた私は、そういえば初心も大事だよなと思い、きちんと座るということをしてみました。

「今日この場に来るまでのこと」をひとりずつ話して、その時に話していない人たちで、見る。その人が話し終わったら、見ていた人たちで、話していたことや話し手の動作、見ていた時の自分に関して、感じたことや思ったことを話す。そして、その時に話していた人は、その話を聞く。このワークをひとりずつ順番にやりました。ルールは、話す時間は3分間で立って話すこと。見方は自由で、話す内容も自由であること。例えば、話を聞いていなくとも、話す感想が全く話と関係ないようなことでもよい、ということでした。その「自由」の部分を最も重要だという風に説明された感じでした。

1人目に話したのは、初参加の中学生の女の子でした。緊張した面持ちで、起床してからこの場所に来るまでの自分の行動を、順を追って話していました。朝ごはんで海苔を食べたことや急いで英語の課題をこなしたことについて、詳細に話していて、私はその光景を現実的に思い起こしました。そこには、つい数年前、まだ学校の勉強に追われたりしていた頃の自分の姿がありました。私は、出来事について話しているのを聞くときには、話している人の立場に立って、話している人の姿に自分を投影させて聞くのだなということに気づきました。また、そこにいた自分は、今の自分ではなくて過去の自分でした。今の話を聞いている自分と区別するために時空を超えて想像しているのかもしれないと思いました。

その子が話を終えて、続いてみんなで話すということをしました。私は、話されていた言葉の意味を探り、そこから自分のイメージに転換することに重きを置いていたので、そのことについて話しました。しかし、時間が経つにつれて声が大きくなっていて緊張がほぐれているのが伝わってきた、とか、背筋が伸びていて綺麗だった、とか、そこに起きていた現象について話している人が多くて、私は見逃していたなと後悔しました。せっかく人が目の前で話していたのに、言葉の意味を追うことに注力するなんて本を読むような聞き方で、見ることを怠っていたと思いました。普段から、その人を見るということができていないことも思いました。また、話を聞くのに飽きて外を眺めていたという人もいて、普段では失礼にあたるかもしれないそのことを言えるのは、度量のある場なのだなと、しみじみしました。

その次は私が話す番でした。目が覚めてから、不味い飲み物を飲んだこと、学校で本を読んでいたこと、疲れたことなどを、嘘をつかないように気をつけながら話しました。みんなが私の身体を見ていることを感じながら、それを感じすぎないように、頭の中で膨大な量の出来事を思い浮かべて、どれを話したいか考えていました。多分、途中で話を止めて考えているだけの時間も流れたと思います。あっという間に3分が過ぎました。

私が話しているのを見ていた人たちの話を聞いていて、面白いと思ったのは、私が腕組みをしていたということでした。腕組みをしていた自分に気づいていなかったからです。やはり私は身体を見る癖がなく、それ故、自分の身体についてもよく分かってないのだなと思いました。腕組みをしているなんて、なんか怖い感じなので、自分に対して冷や汗が出ました。少し恥ずかしくなりました。このことを常に気にしていたら何も話せなくなるかもしれないとも思いました。

この後も、誰かひとりが話すのを見て、見たことについて話し、話していた人は自分について話されているのを見るということを繰り返しました。徹夜していた人の1日も何故か朝から始まっていたり、朝から勉強をしている中学生が多かったりしました。これを途中で休憩を挟みながら最後まで繰り返しました。人数が多過ぎたのが良くなくて、残念ながら全員が立って話すということができなかったのですが、下校時刻がきて幼稚園は終わりました。

私は、多数の人と自由に意見を交わすということを最近あまりしていなかったので、楽しかったし、すっきりしました。会話でしか得られない種類の発見はあるんだと思いました。また、話す人の動作や姿勢に着目するということは面白かったけれど、疲れることでした。慣れていないからだと思います。よく「見る」こととよく話すことのワークショップだったのに、私はみんなより見れていなかったです。そのことに、みんなで話す度に気付かされました。話す言葉から立ちのぼるイメージに自分を投影することでもって話を聞くなんて、まさに自分が見たいものを見ているだけなのかなと思って、反省しました。言葉への信仰を解きたいと思いました。

いくつか参加者からの感想をもらったので、のせます。

観察力、と言うより洞察力が鍛えられたなーと思いました。話す人の言葉の内容から考え方や価値観を推測するだけでなく、相手の動作、視線、声色などをじっくり観察することで、その人の内面的な性格まで推測しようと試みました。これを何度も繰り返す中で、私はだんだんと「自分だったらどうするのだろう。」と思い、相手と自分の話し方を比べるようになりました。そして「人の振り見て我が振り直せ」と言うように、自身のやり方を改善しようとしました。結果的に私は、洞察したことから自身を振り返り、改善する力が身に付いたと思いましす。今までの幼稚園と違う異色の授業でしたが、振り返ると良い勉強になったなと思います。(高3)
客観視を客観視してた気がしました。(高1)
"話を見る"って個性が見れていいなって思った。不思議なって言うか初体験なのか、そゆうかんじのおもしろいかんじだった。(高2)
いままでの幼稚園と比べるとだいぶかしこまってた感じ。ただ、個人的に思ったのは、話すテーマ?の「今日起きてから今ここまで」っていうのがスピーカー各々の感性とかでニュアンスとかが違ってたのは興味深かった。そして、あまり人が話してるとこをまじまじと見たりしないから、この人はこうゆう素振りするんだな、とか、いろんな発見があって面白かった。あとは、意外と自分が話してるときの素振りは無意識の中で大量に行ってるんだなって、自分が話したあとの自分以外のおしゃべりを聞いて思った。(高2)
表現中の体の動きやしぐさなどもそれぞれ特徴があって考えて見ると面白いと思うのですが、僕は話の内容について考えるのが楽しかったです。今日朝起きてからの1日の行動の中で、なぜそのコトをピックアップして話たのか、心の中を想像して意味づけして、みるのが楽しかったです。理由はその人にしか分からないので(もしかしたら本人にも分からないかも)、あくまで想像なのですが、あくまで僕というフィルターを通して意味づけしているので、僕自身を見つめることにもつながるのかなと思いました。発表が終わった後に数人で感想を話し合う時に、僕と他の人のフィルターの違いを感じられて興味深かったです。(教師)

これを読んでみても分かるように、発言や表現、認識の「自由」に気付かされるワークショップだったんだと思います。逆に、本来は存在すべきでない制限に普段どれだけ縛られているのかも分かりました。自由であることを実感できることは、話すことにとって大事です。今回はそれがあったので、私たちは話すことができました。そのような場を提供してくれた黒木さんに感謝です。

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