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色々な生き方を見せる場に

こんにちは。お久しぶりです。世の幼稚園が夏休みであったあいだ、例にもれず芸術幼稚園も休んでおりました。よく休めました。しかし休みは終わるもので、9月から活動再開です。

今回は、夏休み中に芸術幼稚園について考えたことを振り返って、みなさんに伝えたいと思っています。というのも、芸術幼稚園は、より大きなことをしていこうとしています。そうすることに決めました。主催(高3)の卒業という現実的な理由が主にありますが、茨城の田舎の学校の端っこでやってきたことが、どこまでいけるのか、広げていきたい、素直にそう思えました。ありがたいことに、校外の人にも興味を持ってもらえてきていて、大きな、面白そうなことに挑戦できそうなのです。この件については、のちのち具体的な発表をしますので、少々お待ちください。

広げていきたいとか言っていますが、まだ、このままでは実現しません。大きなものに組み込まれるときには、それでも潰れない、しなやかで強い核、理念が必要で、それがまだないからです。だから、9月からはワークショップの活動と並行して「理念つくり」もやっていきます。このテキストはその第一歩でもあります。

さて、前置きが長くなっちゃいましたが、振り返りを始めようと思います。頭に浮かんでいることを可能な限り拾って書くので、とっ散らかってると思いますが、臨機応変に読みとばして読んでください。何卒よろしくお願いします。

一応の目次
① 必要なのは色々な生き方を知ること
② 余裕がないと始まらない
③ すべては捉え方次第である
④ 遊ぼう!
⑤ 社会(ひと)と繋がる

では

① 必要なのは色々な生き方を知ること

ここで話題にしたい「色々な生き方を知ること」は、芸術幼稚園が果たせていた、最も有意義に感じられたことのひとつです。(簡単なことだと思うかもしれませんが「知る」というのは「触れる」とは違います。「理解する」とまではしたくないですが、ここでは少なくとも存在を認識して「理解しようとする」とでもしたいです。「理解しようとする」まで深く、自分とは違う線で生きる人たちのことを認識するのは、ぜんぜん簡単ではないはずです。)

何のために活動しているのか分からなくなったら、参加してくれた人たちの言葉を思い出すようにしているのですが、そうすると気が付く、だいたい常に言われていたことがあります。それは、こんなのはじめてだ、新鮮だった、驚いた、とかいう感覚についての話です。便宜上、これらを「発見の感覚」とします。この「発見の感覚」がどこから発生しているのか考えたところ、ずばり「知ること」からでした。新しいものに出会って、それだけで止まらず、つまり無視することなく、自分の中に取り込む。そうすることで、ようやく発生するのが「発見の感覚」でした。

芸術幼稚園が「知ること」に起因する「発見の感覚」の発生に向いていたのは、自然にそうなったことで、必然だったのかもしれないと思います。外的要素としてのアーティスト、内的要素としての幼稚園らしさと、芸術に関連したワークショップが、普通はこうあるべきだという雰囲気を破壊して、ひとりひとりの「知ること」を邪魔しなかったのではないか。誰もが自分の中に持つ、普通という価値観は、長い時間をかけて築き上げられたものであるがゆえに、なかなか強靭である場合が多いです。そして、強靭であるがゆえ、人々は自分にとって異質なものを排除しようとします。これが差別や偏見をうむわけですが、別に自然の摂理だと思います。自然で、完全になくすのは簡単ではないですが、大きく?なるといけないのは明らかです。

なんか難しい話に逸れそうなので戻しますが、つまり「知ること」と「発見の感覚」の双方が互いに作用して、より高い次元の「こんな生き方もあるのだな感」をみせること、芸術幼稚園はそれを果たせていたのです。それには、面白い内容のワークショップが大きな役割を果たしていて、もちろん「生き方」に限定する必要はないのですが、進路に迷っている中高生にとっては何よりも「こんな生き方もあるのだな感」が、大きかったようで、確かに私もそうでした。そもそも、芸術と「知ること」あるいは「発見の感覚」の発生は、芸術はそのために存在していると言えるくらいに、相性がよいものです。それらが合わさって「こんな生き方もあるのだな感」の発生に成功すれば、当人にとっては将来の選択肢の増加や、多様な価値観がもたらされます。別に生き方に全く迷っていない人に関しても、偏見や差別が減って、総じて「よい!」のではないかと思います。

もうひとつ、つけ足すような形になってしまいましたが、強調したかったのは学びについてです。授業や受験制度などから考察するに、今の日本の学校で推奨される学びは、暗記と訓練に偏りがちです。学びの本質が何であるのかは分かりませんが、偏るべきではないと思います。ここで挙げてきた「知ること」や「発見の感覚」は、暗記と訓練ではない、よく考える方向?の学び方で、それも、必要だと思います。

まとめると「色々な生き方を知ること」は、差別や偏見や学び方の偏りを減らして、幅広い選択肢や価値観をもたらします。そしてそれは、芸術、芸術幼稚園が果たせることです。

② 余裕がないと始まらない

生活面にしても、精神面にしても、余裕がないと人間は基本的に駄目になります。ネガティブな思い込みで自分を責めすぎたり、他人を過剰に批判したり攻撃したくなります。視野が狭まって客観的に考えられなくなったり、自分勝手になりすぎたり、色々なことがどうでもよくなって短慮な行動が増えたりもします。さらに極限まで余裕がなくなると、病気になったり死んでしまう場合もありえます。

こうして敢えて取り上げずとも明らかに、余裕がないのは当人にとっても周囲の人にとっても、できるだけ避けるべき悪しき事態で、実際に意識的に余裕つくりをしながら生活している人も多いと思います。しかし同時に、いつの間にか陥りやすい事態でもあると思います。

過去のテキストにも書いたのですが、これを始めたきっかけは、まさに余裕つくりでもありました。私は、学校生活に余裕がないように感じていたのです。私の場合、余裕がないと物事を前向きに捉えられなくなります。好きなことや面白いことが分からなくなります。そんな状態で、例えば将来のために勉強しようとしても、やる気がでるわけがありませんでした。色々な場面でこの話をしていると共感してもらえることが多くありました。余裕がないのは学校だけじゃないと言われることも多かったです。社会全体的に余裕がないところばかりみたいでした。

余裕がないと始まらないというのは、言葉通りの意味です。四方八方が厚い壁に覆われていて、さらに酷くいうなら目も耳も機能していないみたいな感じです。それが、現実なのです。

「元気のない人を元気にする」(最初に書いたテキストより引用) ための余裕つくり。知ることも学ぶことも余裕の上にあります。この理念は忘れないようにします。

③ すべては捉え方次第である

ここまで、色々な生き方を知ることと余裕をつくることの重要性を述べてきましたが、結局はどちらも捉え方の問題だと思います。

まず、色々な生き方というのは、別に無から生み出されるものではありません。もう既に存在していて、それを「理解しようとする」のかに、かかっているものです。すなわち捉え方であり「理解しようとしない」道もあるわけです。そして私たちは選択することができます。「理解しようとしている風に振る舞いつつ、理解しようとしない」などの折衷案も選択可能です。心で何を思っていても、神は罰するかもしれませんが、現実の世界で罰せられることはありません。よかったね。

余裕の有無ついても、やや事情が異なりますが、捉え方の問題である面もあります。学校や企業という制度や組織はかなり不変なもので、それを苦痛と捉えるか安楽と捉えるかは、個人の感覚に大きく依存しています。多くの人にとって害悪な制度や組織はぶち壊す必要があると思いますが、どうしようもないことも多々あります。たとえば学校は、ひとりの個人がぶちこわしたいと思って、どんなに主張しても、その願いが叶うことはないでしょう。そんなときに、どうすれば余裕がつくれるのかといえば、逃げるか捉え方を変えるかしかありません。逃げるのは大事なことですが、できないときには捉え方を変えるしかないです。そのため、②で書いた通り、芸術幼稚園のような繊細なアプローチもあり得ます。行動ではなくて思考の問題だから視野を広げるだけで解決する場合もある!ということを大事にした一つの方法です。

すべては捉え方の問題だと仮定すると、色々な捉え方を提示すれば、そしてそれを受け入れるだけの余裕があるなら、すべては解決するはずです。(問題というと幅がありすぎ、正確にはすべてが捉え方の問題ではないですが、すべてと言っちゃいたいくらい、捉え方ひとつで解決できる問題は多いので、すべてとしています。それしか、直接的に芸術幼稚園ができることはありませんし。)

こんなわけで、とにかく、捉え方の提示に尽力したい思いが強くあります。認識と感覚と意識に根ざした「芸術」幼稚園ならできると思います。

④ 遊ぼう!

なんだか突然、身も蓋もないような感じですが、これも強くある思いのひとつです。だから「幼稚園」にしたし、馬鹿みたいに「幼稚園」のままで続けています。

今まで書き連ねてきたどこかで、幼稚園らしさという言葉を説明なしに使いましたが、幼稚園の光景を思い浮かべて思いあたる印象のうち、楽しく遊んでる幼児をいちばん想像してほしいです。生まれて初めての集団生活で軍隊みたいだった思い出ではなく、現在の視点から思い返して、自由気ままに鬼ごっこをしたり泥団子大会?をしたりした思い出を、フィクションでも、どうにか想像してほしいです。私は、その光景を大切にしています。

これは余裕の話と捉え方の話と通づるものでもありますが、だいたい私たちには「遊び」が足りてないと思います。遊びというのは実利の有無を問いません。ネットなどで調べてほしいのですが、非生産的であることが遊びのポイントです。大人になるにつれて、非生産的なことはよろしくないようになります。これも捉え方の問題であり、もちろんそうでない場合もありますが、一般的に社会の一員として働きはじめたら、ここは資本主義社会なので生産性重視の思考になります。それが行き過ぎると、逆に?私は、よろしくないように思います。余裕のなさと捉え方の固定化、それに付随する諸問題を引き起こすからです。

さらにいうと、遊ぼう!という意気込みがないと見えないもの、できないことは多いです。特に(!ビックリマーク!)が重要です。幼稚園児は知識や経験によって導き出された将来性ではなくて、その瞬間のテンション、ノリ、バイブル、(!)で動いています。それを体験できるよう、芸術幼稚園はそのための場でありたいです。

⑤ 社会(ひと)と繋がる

タイトルでネタバレしています。そうです、これからの芸術幼稚園の目標は、色々な生き方を見せることであり、そのための場つくりです。幼稚園らしさを大事にして遊んで余裕つくりをしつつ、色々な生き方を見せる場になることが目標です。見せるというのは他動詞?で対象が必要ですが、それを社会(ひと)としたいのです。

とはいえ、社会なんて大きすぎて、正直よく分かりません。しかし、冒頭に書いた広げていくことを実現すべく、対象にしました。何はともあれ、広い世界、環境、世界、社会(ひと)と繋がりたいのです。

自分でいうのもなんですが(人から言われたことでもある)、芸術幼稚園は結構よい企画だと思います。芸術家と教育現場を繋げる実践的な試みとしても、より抽象的な「場」としての機能それ自体を考える素材としても。だから私だけではなくて、私から離れて、もっと頭のいい人たち、たくさんの人に考察してほしいのです。だから、繋がりたいし、その必要があります。また、中途半端に終わらせるわけにはいかない状況でもあります。今、終わらせるのは勿体ないのです。発展途上なので、もっとカオスを巻き込み、溶かしこんで、愚直に続ける価値があると思えています。

あとは、社会と書いて(ひと)と読んでください。いわゆる社会全体をよくしようとすると、どうしても個人の尊重が疎かになります。人間が形成しているものなのに、人権よりも生活よりもコスパ重視の傾向が発生してしまいます。そんなことは全然やりたくないので、あくまでも対象が人間であることを、忘れないようにしたいのです。

最後に

まとまりのないものを読んでいただきありがとうございました。かなり自己採点の低い、悔しいものになっちゃいましたが、それも現状、この企画が発展途上であり、混乱していて、もっとたくさんの何かを巻き込み、ちゃんとする?余地の現れだと思っていただけたら幸いです。

卒業(2020年3月)までは引き続き、ワークショップを可能な限りやっていきますので、よろしくお願いします。現在、講師の方は芸術家にこだわっていません。芸術家がなんなのかわからなくなりました。理念と目的を共有できる、やってみたい人にお願いしたいです。誰でも気軽に連絡を下さい。(並行して「理念つくり」のための何かもやるので、回数的には減ってしまうので、お早めに♪)

実際問題、どうなるのか分かりませんが、3月に卒業したあとも、何かしら活動していきたいです。そのために社会(ひと)と繋がりたくて、そのためのことをしていきますので、どうかよろしくお願いします。

こういうのを締めようとすると胡散臭い幸福論みたいになってしまうのですが、つまるところ、少なくとも私のまわりのみんなが、余裕のある暮らしの中で少しでも幸せに生きてゆけるために、私は活動を続けています。最初は個人の私利私欲だったかもしれませんが、今では確実に、多くの人とことのためにやっています。芸術を、というと高尚な感じがしますが、バカにしないでほしいんです。既存の何かに順応できない人を排除しないでほしい。かといって、形式だけ受け入れて「理解しようとしてる風に振る舞いつつ、理解しようとしない」のは、悲しいことです。だから、芸術の力を以って、「色々な生き方を見せること」をして、形式だけじゃない、本当によい世界をつくりたい。私には熱があります。

混乱していますが、愚直に丁寧に、これからも頑張ります。今後ともどうぞよろしくお願いします。

おわり!





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