なりゆき
屋久島町営船 フェリー太陽Ⅱは鹿児島まで避難していて今日やっと種子島の島間港に入港する予定です。
種子島最南端の門倉岬から雪を冠った屋久島が見えて、大袈裟かも知れませんが「胸が躍る」ってこういう気持ちなのかな、と実感しました。
さて、
種子島の地質を調べたくて南種子町の図書館に資料を探しに行きましたところ、1冊の本と出会いました。
「種子島は古代神々の故郷」著 益田宗児
サブタイトルが、「徐福と神武天皇のルーツ探訪」です。
私の知りたい地質と、かけ離れていますが、
内容は、秦の始皇帝の時代に帝の命を受け3千人の童男童女を引き連れて日本にやって来た徐福集団の功績が弥生時代の稲作文化を定着させた、その最初の地が種子島ではないかというのが記載されていました。
え?
どういう事?
本によると、徐福集団は黒潮に乗って海上の道を進み、種子島に落ち着く。
と書かれています。
読み進んでいくと、日本の古事記が作られたずっと以前の徐福集団の大移動の話なので、根拠はないと思われますが、古事記に出てくる神々がなんと、徐福集団の人々であるらしい途方もない仮説になっていきましたよ!
南種子町茎永に豊満神社があり、この地域は赤米の産地であり、私達が普段食べているジャポニカ米ではなく、ジャバニカ米という東南アジア山間部で生まれた陸稲が起源だそうです。
そういえば広田遺跡ミュージアムで見た発掘された人骨のシュミレーションしたお顔が南方系みたいに見えたような。
徐福集団は、古代中国からどういうルートで日本まで辿り着いたのか、3千人っていう数を考えると、あっち、こっちとバラけてしまった可能性もあります。
そもそも、徐福集団とは、なんなんだ?
秦の始皇帝の時代と日本の弥生時代は同時期なので、この推理は否定出来ない。
現代でも、南種子町の茎永地区に見られる赤米の田植え祭りでは、珍しい儀式が伝承されているそうです。
海で禊ぎを行いタマシダに砂を入れ、土地の神に捧げ、祈り、田植えをし、踊るそうです。
赤米に対する熱い思いがあります。
この素晴らしい文化の事を豊満神社の真ん前に設立されている「たねがしま赤米館」で知りました。
入館料は無料で、分かりやすい展示パネルや
田植えの様子の映像まで見せて下さいました。
さて、
広田遺跡の人骨が発見された海岸に行ってみました。
ものすごく、不思議な場所です。
弥生時代の生活史が想像出来る場所に宇宙まで飛んで行くロケット発射台が間近に見えて、
遠い過去と現在のはざまでクラクラします。
茎永層の割れ目に何故か潮によって運ばれた電気ポット!
笑いすぎて疲れました。
残念ながら、まだチェックしていないのが、旧石器時代から〜ある遺跡の数々です。
キッチンカーの出店の為、車を走らせていたら発掘場所の看板が多数ありました。
遺跡についてはまた次回に調査するとして、
せっかくなんで宇宙センターの食堂でお昼を頂きました。
「宇宙カレー」です。
ガチャガチャまでしてしまいました。
色々ありましたが、種子島は遺跡と神社の宝庫、
そしてロケットセンター。
無事に屋久島に帰れました。
種子島の皆さん、ありがとうございました。
やっぱり、この曲の選択になります。
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