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自転車ブームのもたらしたもの

自転車ブームは終わった。いつ終わったのかは自分には正確に判じきれないけれども、10数年前のようなブームの盛りのようなことは今はもう見られない。

物事は変化するのだ。そして変化の多くは止めようがない。7年周期説というのが囁かれるように、ブームというのは7年ぐらいを目途に盛衰を辿ると言われている。人間の体細胞だって7年で全部入れ替わるとされている。

自転車を取り巻くいろいろなものがこの10年くらいで大きく変化した。まずもって自転車自体が変わってきた。

かつてのMTBはフロントチェンホイールが3枚あって、例えば3×8の24段変速だったのが、今はフロントが1枚になり、ワイドレシオ化された多段ギアでもってレシオをカバーするようになった。その分、クロスレシオ化は後退しているのだが、今のユーザーはそんなこと気にしないらしい。

ディスクブレーキが普及してきたことによって、車輪の位置決めが微妙になり、位置決めに誤差が出やすいクイックレリーズ機構が否定されるようになってしまい、スルーアクスルという機構が採用され始めるようになった。これもクイックに車輪を交換し、脱着するという従来の考え方からすれば明らかに後退である。

なにかが進歩すると、なにかが後退するのだ。

自転車のハード自体のみならず、市場も変化した。昔は10万円あれば、自転車遊びを始めるのに過不足ない機材を手に入れることが可能だったのが、今はそれが20万、30万になっている。

100万を超える自転車も稀ではない。そういうことになってきたので、自分がいかに高価なモデルに乗っているかということでマウントを取りたがる人がたくさんでてきた。クイックレリーズの扱いも知らないし、輪行もしたことのない人が高価な自転車を求めるようになってきたのだ。

そういう高い自転車が売れるようになってきたから、さぞや小売店は儲かっているだろうと思ったら大間違い。流通形態も変化したのだ。かつては販売チャンネルである小売店の力は強く、メーカーや問屋に対して強気の立場でいられたのが、アメリカ流のメーカー直販システムが台頭してきて、小売り店はノルマの台数を販売できなければ、卸してもらえないようになってきたのだ。立場が逆転したのである。

そういうわけで、今の自転車業界は来るところまで来たような感があり、一種疲弊しているとも言われている。BBの規格などかつてはごく限られていたものが、いまや数多くの規格に振り回されるようになった。

物事は先鋭化すると一挙に衰退する。伝統的な様式のプラモデルに高度な製作技術が必要とされることが一般的に知られるようになると、市場は冷え込んだ。今では古典的なプラモデルを買って作るのは、熱心なマニアだけである。ほかはガンプラのようにイージーに作れるものに流れたのであった。MTBの車種も訳が分からないくらいに細分化されるようになったと思ったら、あっという間にロードバイクのブームにとって代わられた。

自転車業界は今、危機にあるとも言われている。なにしろ市場が劣化しているのだから、「良いものを廉価に作れば売れる」というような以前の商道徳は成り立たないのだ。

おかしなことになってしまったのだ。ブームというのは、そういう事態を生み出す元凶でもある。この10数年で、自転車業界は自分で自分の首を絞めるようなムーヴメントに精を出してきたのかもしれない。市場がいびつになるような原因を作り出してきたのかもしれない。

ロードバイクのような、本来競技用の車種がたくさん売れるというのも異常なことなのである。実際には、レースに出場するサイクリストの数は減っているというのに。

自転車愛好者の一定の割合は、少数派ではあるけれど、ツーリング=旅を志向している。しかしその志向に合致したモデルはほとんど市場に見られないというのが現状なのである。中にはそういう自転車を売りたいメーカーもあるし、あったが、市場の要請がロードバイク一辺倒になっていたがためにモデルとして成功しないのである。

なんだかため息が出てくるようだが、それが自転車界の実情である。はっきり言えば、2000年頃にはそれでもまだ少しは成熟しかかっていた市場がいっきょに流入してくる新しいユーザー層によって、大変化してしまったのであろう。

しかし物事は変化するから、また良い方向に動かないとも言い切れない。わが国の乗り物文化の中で、いちばんユーザー層が成熟しているのはモーターサイクルだと思うし、実際にいろいろある車種の中できれいに棲み分けがなされている。旧いモーターサイクルを丁寧にメンテナンスして乗っているモーターサイクリストはちゃんとリスペクトされる。少年の頃から何十年も大切にされてきたランドナーを見て、最近ロードバイクに乗り始めたばかりの素人が「あれはオタクの自転車」みたいな幼稚なことを言う文化とは、大違いなのである。

一つには、モーターサイクルの文化が大人なのは、逆説的だが、もともとモーターサイクルがある部分アウトロー的なイメージ、物好きで危なかっしい連中が駆る乗り物みたいな扱いをされ、モーターサイクリスト自身がそれをよく自覚していたからだろう。ジャンルは違うが、文学などももともと親に褒められるような類のものではなかった。そこでは反骨や反抗が核心を成しているのだ。

かたや近年のサイクリストには、「俺たちは環境の良い遊びをしている」みたいな意識も散見される。そりゃそうかもしれない、けっこうなことなのかもしれないが、そういうことで自分の道楽を正当化するようなことは子どもじみている。つまり彼らは、偉くなるために自転車に乗っているのだ。高い機材を使ってマウントしたがるサイクリストも、自転車で偉くなろうとしている。

そうではなく、面白い文化を生み出すのは、自転車やモーターサイクルで「馬鹿になる」ことができる連中なのだ。モーターサイクルにみられるような乗り物文化の成熟が自転車で見られるようになるまで、あと何年かかるか、私にはさっぱり分からない。



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