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ローカルな駅前の佇まいの背後に

駅前らしい駅前がなくなりつつある。コンビニでも近くにあれば別だが、地方ローカル線の駅前では、食堂や喫茶も見つからないことが多い。
郊外店やモールがあったとしても、たいがいは駅から離れた場所だ。
モータリゼーションとは結局、一家に一台以上の車があるということよりも、車の普及によってその街の商圏や地理的経済構造が造り直されるということでもあった。
いいのか悪いのか、いまのところ、自転車にはそこまでの影響力はないようだ。道路などの交通網を形成するのは、必ずしもそこを利用する乗り物の都合ではなく、その根本に経済を求める商流や物流や人の流れがあるかららしい。

私の知人であったある大学人の男性は「駅には詩情がある」とおっしゃった。言い得て妙だ。鉄道の駅には、説明不可能な比喩的な何かが刻印されている。
それはおそらく、駅がひとつの「境域」であり、「門」であり、「特異点」でもあるからだろう。誰もが等価な存在として、駅の改札を通る。それは、人生のある部分に似ている。
そしてその背景には、一本の直線的ベクトルにも喩えられるであろう鉄道線路がある。鉄道とは、非常に集約化された移動ルートであり、そこを通る乗り物もまた集約化されている。車両は連なってひとつの単位を成している。
それに比べると、道路は非常に散逸的だ。なるほど、車は皆同じところを走っているのかもしれないが、走り方は個々でばらばらでもある。始終車の流れはあり、それはまた容易にほどける。鉄道車両のような、求心力は希薄だ。
第一、それは鉄道よりもずっと好き勝手にどこにでも行けるのではないか。だからそこには、宿命や運命といったような枠組みはほとんど見当たらず、どこか間が抜けている。悲しみや諦念のような深みがない。

駅というものがある種の切なさを持ち、どこかに宗教性を湛えたような聖性を有しているのは、人の生と言うものが通り抜けるべき場所を暗示しているように見えるからなのかもしれない。
そういう象徴的な場所が、シャッター街化して形骸化することは、いかにもこの近代の終焉の成せる業という気もする。近代産業主義が人間の聖性などを慮(おもんばか)ることなどまずない。それを破壊することが仕事だったからだ。
もちろん郊外化したショッピングモールには人も集まるし、それはそれでまた何かに似ているのであろう。一定期間だけ機能すればいいテーマパークのように、それ自体がスクラップ&ビルド的な何かを体現しているのかもしれない。

人間のやる個別の創造行為は、多くの場合、意識的に成される。家を建てようとして家を建てる。商売をやろうとして店を持つ。商売に都合の良いところに店を建てようとする。
そのようにして駅前商店街の一角は出来上がったのであろうけれど、駅という交通機能に連なって街が形成される、その全体はどちらかというと非人格的であり、集合意識的でもある。
それは、恣意のない一種のコラージュであり、アートでもあり、誰もそういうものを作ろうと思っていないのに、作品化されて、どこそこの駅前界隈というような限定的世界を形成している。
それは額縁に入ったり、エンドロールやあとがきや奥付のあるような芸術作品ではないだろうが、誰かが気がつけば、それはそうなり得る。鉄道は近代の産物だろうが、駅前商店街は、私個人は、反近代的だとも思う。
ローカル線のあらかたの駅前などどれも無名なのだが、しかしそれを別の視座から見れば、世界的な美術館の回廊のようにも思えてくるのである。
作品は、駅前通りに連なったかつての店舗そのものなのだ。

(このジャンルの記事は「白鳥和也の旅エッセイ」に多数掲載しています)

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